第1部 シンデレラ・キッズA

2006.03.22
 ☆理髪店の長男☆    父の影響? 球技に熱中 
 
1930年代に撮った家族写真。後列左から父の房一、母タツヨ、長男ワタル。前列左から二男タツミ、三男オサム(全米日系市民協会所蔵)

 米国ユタ州の州都ソルトレークシティーから北へ約五十キロ。山に囲まれたオグデンで、ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は一九二三(大正十二)年十二月二十一日、産声をあげた。父の房一は四十歳、母のタツヨは二十三歳。広島県岩子島村(現尾道市向島町岩子島)から移り住んだ日本人夫婦は、生まれたばかりの長男を囲み、至福のクリスマスを迎えた。

★3兄弟育てる

 駅前に構えた小さな理髪店「バーバー・ミサカ」が、一家の生活を支えた。房一が技術を学んだギリシャ人から買い取った。やがて一ブロック東に移り住み、三人の息子を育てた。

 房一が、なぜ米国へ来たのか、なぜ理容師なのか。理由は誰も知らない。英語をうまく話せなかったためか、子どもたちに多くを語り掛けることはなかった。

 広島県が刊行した「県移住史」によれば、一九〇二(明治三十五)年、約千五百人が北米大陸に渡った。その一人が、当時十九歳の房一だった。七月中旬に神戸港を出て約一カ月後、シアトルに着いた。職業「漁師」。所持金「四十五ドル」。ロサンゼルスの全米日系人博物館にある入国記録が数少ない足跡として残る。

★日曜日は野球

 二〇年代のオグデンで日本人は小さなコミュニティーをつくっていた。野球が盛んで、日曜日は毎週のように試合。ミサカは「父は小太りで、スポーツマンではなかった」と言うが、近所に住んでいたジョージ・シミズ(85)の記憶は少し違う。「(日系)一世のチームに所属し一生懸命だった。他地域の選手とけんかするほど熱い人」

 わんぱく盛りの三人兄弟は、野球やバスケットボール、アメリカンフットボールなどに熱中した。「アスレチック・ブラザーズ」と知られていた。長男がけがをしたフットボールには難色を示したが、スポーツを楽しむことに反対することはなかった。三五年ごろ、日本から来た野球チーム「東京ジャイアンツ」の試合には、息子たちを連れて観戦した。

 ミサカがバスケットボールで頭角を現す直前の三九年春、房一は五十五歳で亡くなった。新築されたばかりの日本人仏教会の寺で葬式は盛大に営まれた。米国では珍しい火葬。渡米から三十七年、「いつか日本に帰るだろうと…」という房一の願いがかなうことはなかった。遺灰は五四年に亡くなったタツヨのひつぎへ一緒に納められた。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催