第1部 シンデレラ・キッズD

006.03.25
 ☆明治の母☆    物静かさに気骨秘める 
 
一人で理髪店を切り盛りした母のタツヨ(ワット・ミサカ提供)

 色あせた何通もの手紙をワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は大切に保存している。「次の休みには家に帰りなさい。皆待っています。母より」。米軍にいた時代、各地の所属先へ送られてきた大切な宝物だ。

 母親のタツヨは日本語しか書けなかった。息子の日本語は片言。難しい言葉には、カタカナで表した英語が添えられていた。「これを見ると涙が出そうになるんだ」。意味はよく分からなくても、文字から母の愛情を感じ取った。

★一人で店守る

 働き者で物静かな女性。ミサカ兄弟は同じ母親像を抱く。タツヨは一九〇〇(明治三十三)年、広島県岩子島村(現尾道市向島町岩子島)で生まれた。二二(大正十一)年、すでに米国へ移り住んでいた同郷の房一と結婚しユタ州へ来た。

 三九(昭和十四)年に亡くなった夫から継いだ理髪店「バーバー・ミサカ」を一人で切り盛りする生活は楽ではなかった。午前八時から働きづめ。昼はお茶漬けをかき込んだ。日本との戦争中は、客の髪を切り、ひげをそって料金は一ドルだった。五四年に亡くなるまで一人で店を守った。

★観戦かなわず

 ジュニアハイスクールからバスケットボールで活躍したミサカは、オグデンの有名人になった。ユタ大の一員として全米優勝した時は、市長や近所の人たちが祝った。だが、「母はワットのプレーを一度も見たことがないんだ」と、弟のタツミ(77)は残念がる。

 一度だけ、観戦するチャンスがあった。ユタ大でプレーしていたころ。夕方六時に店を閉めておめかしし、会場のソルトレークシティーへ駆けつけた。着いたのはハーフタイム直前。「後半も出ると思ったんだけど…」とタツミ。

 しかし、楽勝ムードで、ミサカら主力はベンチに退いた。結局、長男の晴れ姿は目にできなかった。

 店の客に褒められても、ほほ笑みで返す。「新聞に出ているよ」と言われれば「英語は読めませんよ」とでも答えたのだろうか。弟二人は、母が兄を自慢する姿を記憶していない。

 家の裏にはたくあんを漬けるたるが二つあった。「母は明治の日本女性」。タツミが覚えている言葉がある。「ハクジンニ、ホレテ…」。子どもたちを「米国人になれ」と育てる一方で、米社会に迎合する日本人への批判がこもっていた。

 岩子島の実家には、米国の息子たちの写真を送った。戦後は広島市に住む弟家族に衣服や食料、お金も。弟家族に届いたミサカの結婚式の写真の裏には、一人一人の名前がきちょうめんに記してあった。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催