第1部 シンデレラ・キッズC

2006.03.24
 ☆ラッキーな男☆    高校・大学 常に優勝経験 
 
1944年の全米大学選手権(NCAA)決勝で、ダートマス大の選手とボールを奪い合うミサカ=中央右(ユタ大提供)

 ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は子どものころ、タッチ・フットボールに明け暮れた。一九三〇年代、米国ユタ州オグデン駅前の小さな空き地が遊び場。走り高跳びや野球にも夢中になった。足が速くてスポーツ万能のワット少年は引っ張りだこだった。

 十五歳で、遊びのバスケットボールは本格的な競技生活へと変わった。オグデンハイスクール(高校)の体育館へ通じる廊下に、一枚のプレートがある。バスケットチームがユタ州の大会で優勝した年が刻まれている。「Boys―1940」。ミサカの名前は街を飛び出し、広まっていった。

★MVPに輝く

 その後進んだオグデンのウイバーカレッジではカンファレンス(地区大会)で優勝し、最優秀選手にも選ばれた。「貢献したかは分からないけど、優勝するチームにはいつも自分がいた」。着実にステップを上がっていった。

 「ワットはラッキーな男」。弟タツミ(77)の言葉には、羨望(せんぼう)の思いがこもる。五つ年下の二男はハイスクール時代、野球の州選抜選手に選ばれた。しかし、試合に出られないこともあった。

 当時は日本との戦争中。米西海岸では日系人が立ち退きを命じられ、収容所へ送られたころだった。タツミは「偏見や差別を感じた」と、当時の無念さを隠そうとしない。

 ミサカたちの友人、トゥーバー・オクダ(77)は長いつきあいがある。「タッツ(タツミ)はワットと同じくらいの運動能力があった。すばらしいピッチャー。でも、いい時にいいチームに入れなかった」。実力だけでは、認めてもらえない時代でもあった。

 日系人である上に、身長五フィート七インチ(約一七〇センチ)はプレーヤーとしては小柄。それでも、野球のタツミに反して長男のミサカはバスケットのゲームでスポットライトを浴びた。「試合では常に頭を使って、展開を読むようにトレーニングしていた。敏しょう性とジャンプ力は当然、鍛えたよ」と、こともなげに口にする。

★守備の名手に

 カレッジから編入したユタ大では「周りに得点力がある選手がいた。だから、守りに力を入れた」。守備の名手として、チームに欠かせない存在となった。「私は幸運な選手。ユタ大は二度しか全米優勝していない。自分は、その両方を経験したんだからね」と、ミサカは楽しそうに笑うだけだ。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催