第2部 日米のはざまでE

2006.04.23
 ☆ジャパニーズ・ボーイ☆    NYファン 拍手と歓声 
 
全米招待大学選手権で優勝したユタ大の先発メンバー。左端がミサカ(ユタ大提供)

 米国生まれの「ジャパニーズ・ボーイ」は、本場のバスケットボールファンをとりこにした。一九四七年三月、日系二世ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)が、ユタ大を全米招待大学選手権(NIT)優勝に導いた。

 ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでの決勝には、約一万八千人が詰めかけた。観客は四四年の全米大学選手権(NCAA)で、代替出場ながら見事に優勝を飾ったユタ大の快挙を覚えていた。

★俊敏な司令塔

 目当ての選手は身長五フィート七インチ(約一七〇センチ)と小柄ながら俊敏なユタ大の司令塔。米学生バスケット界のスター、ケンタッキー大のラルフ・ベアードを1点に封じた日系人ミサカのプレーに、称賛の拍手と歓声が鳴りやまなかった。

 ユタ大は毎年十二月にニューヨークへ遠征していた。だが、ミサカが遠征メンバー入りすることはなかった。二年間の兵役を終えて四六年九月に復学した後も、実力でベンチ入りの十二人を目指した。遠征するメンバーが風邪をひき、代わって試合に出場したミサカは、そのまま先発メンバーのチャンスをつかんだのだった。

 四五年八月、日本との戦争は終わった。だからといって、米国で暮らす日本人と日系人の環境が、大きく変化したわけではなかった。家を移り住むのに近所の了承が必要となるような状況は長く続いた。

 だが、ミサカはいつも歓喜の中心にいた。チームメートで四四年のNCAA最優秀選手、アーニー・フェリン(80)は「あの時代に、(日系人の)ワットの人気があったのは、珍しいことなのではないか」と思いをめぐらす。ユタ大の試合のチケットはすぐに売り切れた。ニューヨークの地元チームの選手よりも、日系二世のミサカのプレーが人気を呼んだ。

★プロも熱視線

 「米国は日本と戦争していた。ワットは『日本人』だ。当時はチームの中にいて、気付かなかった。一緒に人気を楽しんでいたよ。これこそ、スポーツの奇跡じゃないか」。フェリンは五十九年たった今になってあらためて思うという。

 米バスケット史で、大学チャンピオンに名を連ねた日系人選手は、後にも先にもミサカしかいない。しかも、身長約一七〇センチは選手としては小柄だ。コートで輝きを放つ姿が、米国民の心をとらえた。

 米プロバスケットBAA(現NBA)、ニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)のネッド・アイリッシュ社長も、プレーに注目した一人だった。やがて、ミサカの競技人生はプロの舞台へと移っていく。<敬称略>=第二部おわり



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催