第2部 日米のはざまでD

2006.04.22
 ☆ユタの英雄☆    大役に奮起 栄冠つかむ 
 
全米招待大学選手権で優勝、喜ぶユタ大メンバー。右から2人目がミサカ(友人のアーニー・フェリン提供)

 ワット(本名ワタル)・ミサカ(82)にとって、一九四七年は最も輝いた一年になった。二年間の兵役を終えて四六年九月に米ユタ大へ復学し、再びバスケットボール生活が始まっていた。

 三月、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンは、ユタ大対ケンタッキー大の全米招待大学選手権(NIT)決勝を迎えた。先発メンバーが一人ずつ紹介された。スポットライトを浴びて、ミサカもさっそうとドリブルを演じながら登場。華やかな雰囲気に包まれて試合は始まった。

★好選手抑える

 ミサカは決勝の前日、バダル・ピーターソン監督から重要な役回りを言い渡されていた。いつもは前もって伝えない監督が、ホテルを訪れたミサカの友人に言った。「ワットを夜遅くまで付き合わせないでくれ。明日、ラルフ・ベアードのマークに付かせるから」

 ケンタッキー大のベアードは米国代表にもなった好選手。ミドルシュートだけでなく、ドリブルで切り込む「ドライブイン」も得意なポイントゲッターで、シーズンの優秀選手に選ばれていた。

 大役を任された身長五フィート七インチ(約一七〇センチ)の小柄なガードのミサカは意気に感じた。試合開始から、ところ狭しとコートを走り回った。シュートしたと思うと自陣に戻ってパスカット。べったりと張り付く守りに、ベアードはボールを持つことさえ難しかった。

 ベアードはこの試合、フリースローの1得点にとどまった。49―45。試合終了のブザーが響き、ユタ大メンバーはミサカに飛び付いた。「自分一人で抑えたわけではない。みんなで助け合った。マークマンが自分だっただけ」。自慢するそぶりは見せなかった。

★祝福の中心に

 翌日の米紙ニューヨーク・タイムズは「米国生まれの日本人、小さなワット・ミサカはケンタッキー大に惨めな夜をつくったキュート≠ネやつ」と絶賛した。どの新聞にも「Wat Misaka」の文字が躍った。

 四四年の全米大学選手権(NCAA)優勝の時は控えの切り札だった。四七年は違った。先発メンバーの座を勝ち取っていた。戦争が終わり、軍隊から帰ってきた若者がキャンパスにあふれた。ピーターソン監督は四四年の全米優勝メンバーを優遇せず、実力主義でベストメンバーを選んだ。

 ユタ州ソルトレークシティーはお祭り騒ぎ。メーン道路を通行止めにしてステージを作り、ユタ州の知事や市長も祝った。ミサカは数々の表彰を受け、祝福の輪の中心にいた。日系二世の星は「ユタの英雄」になった。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催