第4部 パイオニア@

2006.06.07
 ☆転身☆    非白人のボウラーに道 
 
1953年、日系二世のボウリング仲間たちと並ぶミサカ=左から4人目(JACL提供)

 一九四七年十一月、米プロバスケットボールBAA(現NBA)のニューヨーク・ニッカーボッカーズ(愛称ニックス)を解雇されたワット(本名ワタル)・ミサカ(82)は、バスケット界から姿を消した。数年後、ボウリング界にその名が登場した。白人以外のボウラーに公式戦参加への道を開き、ボウリングを全米の日系人へ広めた。

 米ユタ州ソルトレークシティーへ戻ったミサカは、ニックスとの契約金三千ドルを復学する費用にあて、四八年六月にユタ大を卒業した。

★友人に誘われ

 青春を燃やしたバスケットと決別したばかり。そのころ、ソルトレークシティーの街ではボウリングブームが起きていた。友人に誘われるままに始め、すぐに夢中になった。新たに情熱を傾ける競技にめぐり合った。バスケットからボウリングへ。ミサカのスポーツ歴は大きく変化した。

 当時の米ボウリング協会(ABC)は、公式戦への出場を白人しか認めていなかった。日系人たちは「自分たちのリーグをつくろう」と四七年、全米日系人市民協会(JACL)がソルトレークシティーで独自の大会を開いた。

 大会はサンフランシスコやロサンゼルスなどへも広がった。ボウリング愛好者が増えるにつれ「公式戦に出たい」と願う声は日増しに強くなった。腕を上げ始めていたミサカもその一人だった。

 ミサカは日系以外の友人も多かった。ユタ大のバスケットチームを二度の全米優勝に導き、学友会の副会長に推薦されたほどの有名人。広い交友関係の中にABCの幹部がいた。「白人以外にも開放してくれないか」と何度も働きかけた。熱意は通じ、五〇年、ABCの人種制限はなくなった。

★リーグを創設

 ミサカは五六年からソルトレークシティー・ボウリング協会の理事を務め、会長にも就いた。一方で、日系人ボウリングの発展にも力を入れた。「ソルトレーク・ニセイ・ボウリング・リーグ」を創設。全米組織の全米日系ボウリング協会(JANBA)では七九年から五年間、会長を務めた。「ハワイなど、日系人が多いほかの地域へも広めようと努めた」と懐かしむ。

 今も毎週火曜日の夕方に、なじみのボウリング場へ通う。ミサカの腕前は、今でも一級品。「八十歳の時、299のスコアを出したんだ」と自慢する。12投球目、10番ピンを一つ残したのが心残りだという。<敬称略>



8月19〜24日 世界バスケ1次リーグ広島開催