中国新聞

第4部 合縁奇縁

■ 4 ■ 恩獣

 「神仏の使い」庶民親しむ

「猪変(いへん)」
(03.3.20)


 岡山県和気町の和気神社には、イノシシを霊猪(れいちょ)と呼 ぶ習わしがある。参道に鎮座する魔よけのこま犬まで、イノシシ だ。長い鼻をつんと上げた石像が、にらみを利かす。
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 「神の使いと考えているんです。祭神の和気清麻呂さんを助けて くださったので」。宮司の小森成彦さん(57)が厳かに言う。和気で 生まれた奈良時代の公家とイノシシを結び合わせた、伝説を話して くれた。

 ◇ ◇

 清麻呂は皇位をめぐる政争で、都から鹿児島に追いやられた。道 中、大分・宇佐八幡宮で追っ手に襲われた。その時、どこからとも なくイノシシの大群が現れ、暗殺の危機から救ってくれた―。明治 時代に清麻呂が十円札の肖像画に選ばれた時も、裏面にはイノシシ が刷られたほど、当時は有名なコンビだった。

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社殿のわきにも、イノシシの魔よけが鎮座する和気神社(岡山県和気町)

 「人間は、矛盾した生き物だなあ」と、小森さんは最近思う。野 獣と知ってあがめ、祈っていたのに、農業被害が増えたら、手のひ らを返して駆除に躍起になる。

 中国山地にある島根県三刀屋町の禅定寺には、本尊の聖観世音菩 薩(ぼさつ)がイノシシに化けたという逸話が残っている。

 ある豪雪の冬、餓死寸前の住職の前にイノシシが現れ、脚を食べ させ、命を救ってくれた。それは、菩薩の化身だった。以来、「身 代わり観音」と呼ばれ、拝めば食べ物に不自由しないと信じられて きた。町内外の農家は昭和の初めまで、参拝時には種もみを携え、 やってきていた。

 ◇ ◇

 「菩薩様も、同じ化けるんなら、肉のうまいイノシシがええと思 うたんでしょうなあ」。二年前に住職を引いた後も過疎の山寺の守 りをする、岡田慶運さん(83)がにこやかに話す。

 岡田さんも害獣と憎まれ、駆除される一方のイノシシに心を痛め る。「人間は、野のもんをもっと大切に育てんと、食べていけんは ず。命を粗末にしたら、いつか罰が当たる」

 廿日市市北部(旧吉和村)の猟友会長を務める酒販業栗栖国泰さ ん(65)は、束ねたイノシシの毛を空の金庫に入れてある。毛先が二 また、三またと分かれ、運が開けると今でも珍重される。「縁起担 ぎでお金が増えるように、レジや財布に入れたりしたんよ」

 猟を始めて四十年。数年前まで、村内の山で見かけなかったイノ シシの気配が濃くなっている。住民の多くは、異変に気付いてな い。「給料取りばっかり増えて、山に入る者が減ったけえ」。若者 は持ち山の境界さえ、あやしいという。

 自宅前の国道186号を、車が行き交う。「昔の人は、貴重なイ ノシシ一頭をどう使いきるか、じっくり考えたんじゃろうね。毛一 本をありがたがるんじゃけえ。やっぱり今は、物がありすぎるんか ねえ」

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