中国新聞

第4部 合縁奇縁

■ 3 ■ 嘆き節

 畏敬の心にじむ万葉歌

「猪変(いへん)」
(03.3.19)


 奈良時代に編まれた、日本最古の歌集「万葉集」にイノシシを詠 んだ歌が十九首出てくる。恋路を邪魔する、彼女の母親を嘆く歌が ある。

 霊(たま)合へば相寝(あいぬ)るものを小山田の鹿猪(しし) 田守(も)るごと母し守らすも

 監視のきつさを「山の田でシカやイノシシを見張るよう」と例え ている。イノシシは既に、害獣の代名詞だった。
地図

 ◇ ◇

 「万葉の歌の舞台は、多くが里山。昔から、人と獣がぶつかり合 う場所だったんです」。益田市の矢冨厳夫さん(74)は古里ゆかりの 万葉歌人、柿本人麻呂の研究者。「山のもっと奥は、死者がさまよ う場所と考えられていましてね。死後の世界から下りてくる獣のイ ノシシに、人間は恐れおののいたんですよ」

 万葉集には、イノシシの特別な表記法がある。「十六」と書い て、シシと読ませる。九九のもじりである。死の連想につながる四 の字を重ねる「四四」と書くのを嫌ったのだ、という。

Photo
耕作放棄田のやぶから現れた、イノシシの寝床(島根県瑞穂町)

 イノシシを詠んだ十九首は恋の歌あり、狩りの歌あり。「どの歌 も、にっくき害獣イノシシという心ばえはない。自然界に対する畏 敬(いけい)の念があったんでしょう」と矢冨さん。

 生態の分からないイノシシは長い間、物怪(もののけ)に通じる 怪獣と信じられていた。万葉集から四百年ほど下った室町時代の随 筆「徒然草」。吉田兼好は「臥(ふ)す猪(い)の床」という和歌 の決まり文句に触れ、こう書いている。

 「恐ろしいイノシシにしても、枯れ草を集めて眠るイノシシの寝 床と口に出してみると、優雅な感じになってしまう」

 ◇ ◇

 かつて恐れた山を、現代人は切り開き、ドングリのならない人工 林や田畑に変えた。野生鳥獣のすみかと、背中合わせの暮らしを選 んだのだ。

 「イノシシには、えっといじめられた。神様は何で、こんな害獣 を生ましめたもうたんじゃろうか、思うよ」。島根県瑞穂町の中野 春雄さん(79)は妻と二人、山際の田畑約二十アールを耕し続けてき た。田を荒らされ、芋は丸ごとさらわれる。「農業じゃ食っていけ んと、子どもは都会に出た。家族一緒に過ごせないのがつらい」。 悲しみを、二十代で覚えた短歌に塗りこめてきた。

 猪(しし)防ぐ花火鳴らせし爆煙が露けき月の峡(かい)下りゆ く

 この十年、イノシシを詠む歌がめっきり増えた。二年前には「猪 と棲(す)む」と二十三首をまとめ、同人誌に載せた。

 夢にまでイノシシが現れる日々。六年前に聴力を失い、苦悩はこ もる。憎むあまり、猟師の獲物をくわで打った時もある。「生き物 の命を奪うのは、むごいと思うが、農家にすりゃあ、どう見たって 害獣でしかないんよ」。声が震えていた。

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