中国新聞

第4部 合縁奇縁

■ 6 ■ 猪の字

 名字や地名 親しみ刻む

「猪変(いへん)」
(03.3.22)


 イノシシを名字にあやかる一族がある。太田川が貫く広島県加計 町の程原地区。十戸の家々はどれも、「猪(いの)」の表札を掲げ る。
地図

 約八百年前というから、源平合戦のころだ。源氏に、猪隼太(は やた)という侍がいた。戦に敗れ、今の東広島市まで逃げのびた。 何代かの世代を経て、子孫が、さらに山あいの加計町に移住。江戸 時代には鉄砲の火薬をこしらえ、生計を立てたという。

 猪姓は珍しく、中国地方では広島市北部と岡山県北部に親類がい るぐらい。「小さい時は恥ずかしゅうて。今は、仕事相手にすぐ覚 えてもらえて、助かってます」。週末に、就職先の大阪から帰省し ていたデザイナー猪尚昭さん(27)が照れる。そばで母親の待子さん (50)も「そうよ。新年会、秋祭りと、親類が何かと集まれる一体感 のもとなんだから。ありがたいことよ」

 ◇ ◇

 宍道湖に臨む島根県宍道町。地名の「宍」は、シシとも読む。宍 道はシシ道、つまりイノシシの通る獣道なのだ。

 ゆかりの伝説が、約千三百年前の奈良時代の地誌「出雲国風土 記」にある。大黒様が犬を連れて狩りに出かけると、犬と二頭のイ ノシシが石に変わった、という。山際の神社に残る猪石(ししい し)が伝説の名残とされ、町文化財にも指定されている。

Photo
集落を貫く川に、イノシシの絵を彫った橋がかかる猪山地区(広島県戸河内町)

 古い地名ほど、土地の環境や歴史を知るよすがが隠れている。 「猪」の字を含んだ地名が中国五県にないか、国土地理院の地図を 繰ってみた。猪之子、猪ノ鼻、猪又、猪原…。六十近く、載ってい た。イノシシを隣人として、受け入れてきた器量の証しだろうか。

 ◇ ◇

 その一つ、広島県戸河内町の北東部、谷あいに開けた猪山(いの しやま)地区の由来は、谷の中州にある高さ二メートルほどの土こ ぶだった。イノシシが伏せた姿に似ている。かつては頭部もあった が、大雨で流された。周りの山々も、獣の気配が濃い。

 「強い獣じゃけえね。地区を守ってもらおう願うて、地名に付け たんかも」。地元の農家で、郷土史好きの煙草(たばこ)冨広さん (72)は、そう推し量る。

 猪山の名前は、製鉄について触れた江戸時代の古文書に載ってい る。たたら製鉄が盛んだった中国山地の集落らしく、猪山にも十一 カ所の遺構が残る。大量の薪を切り出し、炉にくべ、鉄を作った。 山あっての暮らしを刻んできた。

 煙草さんも若い時分は、山仕事で汗をかいた。材価の低迷で見放 され、荒れ放題になってゆく造林地。「森が細って、食い物がなく なりゃ、イノシシは里に出るよ。終戦直後のわしらが、そうじゃっ たよ。食料がのうて山へ入り、野草も食べた。今はイノシシが、逆 襲しよるんじゃね」

(おわり)

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