島は夕闇に包まれ、セミの声もいつしかやんでいた。ちょうちんの優しい明かりに照らされた御笠浜を見渡す参道に、編みがさを目深にかぶった踊り子がひとり、またひとり現れる。白の浴衣に黒い羽織が映える。
♪我は筑紫の者なるが今年はじめて宮島へ 山の景色を見渡せば 日本三景随一の 聞きしにまさる厳島 さらば参詣申すべし
四季が移ろう神の島を詠んだ「宮島八景」。やぐらを組んだ音頭場から聞こえてくる歌声、その傍らには三味線を弾く島の女性たちの姿がある。やぐらの下には太鼓が陣取る。
踊り子たちは指をぴしりとそろえて右手を上げ、地を突くように左手を下げる。すり足で一歩進み、そして回る。ゆるり、ゆるりと、決して止まることなく、しめやかに舞う。
戦国時代から続く宮島踊り。一五〇〇年代の初め、神前に矢を放ち民家に火を付けた揚げ句、嵐で海に沈んだ伊予の地頭を供養する念仏踊りとして始まり、約五百年続いてきた。交易船の中継地として歴史を刻んできた島は、亡霊が航行を阻むのを恐れたのだろう。
「昔は霊を慰めとったんよ。ほれ、目の前で両手を合わせとるじゃろう」と最年長で太鼓をたたく飯冨博さん(82)。「黒羽織も、昔は喪服だったのかねえ」と、いにしえに思いをはせる。
旧暦七月十六、十七の両日、厳島神社沖の鳥井の洲(す)で踊っていたが、いつしか期間が延びた。踊り場は増え、歌詞も曲節も世俗化した。舞楽の動きを取り入れ、所作もゆったりと変わった。大願寺の境内、大聖院の寺務所前…。夕涼みがてら、浴衣やステテコ姿で気軽に踊った。
今では歌い手と囃(はやし)方は八人。「昔は出番を奪い合って歌ったもんじゃ。テレビの普及が原因かのう」と親子二代で保存に取り組んできた歌い手の八木恒夫さん(82)。最年少が六十代後半と高齢化も進み、危機感を募らせる。
観光客の向けるカメラのフラッシュが暗闇を裂く。気分が高揚してきたのか、浴衣姿の子どもやカップルが踊りの輪に加わる。「うれしいよねえ」。目を細める八木さんのつややかな声が、三味線の音に乗って、浜に響く。 −2006.8.27
(文・梨本嘉也 写真・藤井康正)
宮島踊り 水死した地頭の名前にちなみ「多賀江念仏」と史書に残る。島の人は単に「踊(おどり)」と呼ぶ。昔は、囃方にしの笛や尺八、胡弓(こきゅう)も入っていた。「宮島八景」は40分の曲だが踊り子も囃方も体力的に厳しいため、十数分だけ演奏している。現存する12曲を歌えるのは「宮島芸能保存会」の飯冨さんと八木さんだけという。
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