2006.11.26
2.  認定テロリスト   「不当逮捕」 消えぬ汚名



 「どうぞ、家まで来てください」。面会をあきらめかけていたムハマド・サラさん(53)の妻、マリヤムさん(45)から突然電話が入った。イリノイ州シカゴ市での取材も終わりに近づいたときのこと。早速、同市郊外のイスラム教徒が多く住む夫妻の家を訪ねた。

 一軒家のこぢんまりとした部屋に通されると、パレスチナ系アメリカ人のムハマドさんは、私との面会をちゅうちょした理由を口にした。

 「これまでメディアで取り上げられて、いい思いをしたことは一度もない。新聞もテレビも、人目を引くための興味本位の報道をするだけ。真実を伝えようとしない」。言葉の端々から、マスコミ不信の強さが伝わってきた。「それに…」と彼は言葉を継いだ。「日本人には会ったことがないので、正直怖かった」

 五歳になる娘は最初、「父親を逮捕に来るのでは」と恐れたという。二十歳になる大学生の長男を頭に息子三人と娘二人。自国政府から「特別認定テロリスト」扱いを受けているムハマドさんの置かれた状況が、一家にどれほど深い心理的影響を与えているか。父親の腕にしがみつく末娘の姿からもうかがい知れた。

 ■祖国訪問で一変

 パレスチナ生まれのムハマドさんは一九七一年、留学生として兄(75)の住むシカゴへ。地元の工科大学卒業後は、食品・雑貨店を営んだ。七六年には米市民権を取得。共通の友人を介して知り合ったイラン生まれのマリヤムさんと八二年に結婚した。彼女も四年後には市民権を獲得。三人目の子どもが生まれる九一年まで、高校の英語教師を務めた。

 「平凡だけれど、新天地での幸せな暮らしだった」。頭をスカーフで覆ったマリヤムさんが、平穏だった日々を懐かしそうに振り返った。

 事態が一変したのは九三年一月。ムハマドさんが祖国を訪ねたときだった。敬虔(けいけん)なイスラム教徒で、人望の厚かった彼は、シカゴやデトロイト(ミシガン州)周辺に多く住む在米パレスチナ人が寄付した十万ドル(約千二百万円)を携えていた。信頼できる現地の医師らを通じて、イスラエル軍の占領地などに住む貧しいパレスチナ人に手渡すためだった。

 が、パレスチナ滞在十一日目。ガザ地区検問所でイスラエル軍兵士に逮捕された。それから約八十日間、軍収容所での尋問が続いた。イスラエル当局は、ムハマドさんがパレスチナのイスラム急進派組織ハマスに資金援助をしているとみなしていた。

 「事実とまったく違う。でも、どんなに否定しても通じない。否定するほどに拷問は激しくなった」

 「どんな拷問を?」

 ムハマドさんは当時の屈辱感を思い出したのか、言い渋った。が、「全部話したら」との妻の言葉に促されるように重い口を開いた。

 「体中、殴るけるは日常茶飯事。トイレに行かせない。裸にする。眠らせない。小さないすに縛りつけ、エビのような格好で何時間も放置する。家族に危害を与えるとの脅迫…」。ムハマドさんは「今思い返しても、人間が人間にできる行為ではない」と付け加えた。

 肉体的、精神的に追いつめて自白させるのが目的である。シカゴ市内で会ったムハマドさんの弁護士で、ユダヤ系アメリカ人のマイケル・ドイッチさん(61)は「イスラエルで行われている拷問は、国連や国際人権団体からも強く非難されている」とその行為が広く知れわたっていることを指摘した。

 ムハマドさんは「命を守るため」に、最後には理解できないヘブライ語で書かれた書類に署名した。ハマスのメンバーで、活動にかかわっていたことを認める内容だった。軍事法廷では五年の刑を言い渡された。

 ■報道され職失う

愛国者法
 包括的なテロ防止法として、2001年の9・11米中枢同時テロから1カ月半後の10月26日に成立。簡略な司法手続きに基づくFBIなどによる電話の盗聴や電子メールの検閲、テロリストや支援者への罰則強化、図書館や医療機関での個人利用情報の提出命令などが盛り込まれている。

 施行後、アラブ系住民らに対する扱いで「人権侵害」との訴えが頻発。平和団体などへの盗聴も相次ぎ、言論の自由や基本的人権を保障した「米国憲法に違反している」として訴訟も起きている。連邦議会では4年間の時限措置で05年末で期限が切れる16条項の扱いを審議。紛糾の末、批判の強い「盗聴条項」「記録入手条項」の2つを4年間延長、残る14条項を恒久化する改正愛国者法を今年3月、上下両院で可決した。
 三人の子どもを抱え、厳しい生活に耐えたマリヤムさん。九七年十一月、四年十カ月ぶりに夫が帰国した。「平穏な暮らしが戻ると思ったのに、帰国後もその苦しみが続くなんて…」と、彼女は言葉を詰まらせた。

 米政府は九五年、イスラエル政府の通告を受けて、ムハマドさんを大統領令による「特別認定テロリスト」に加えていたのだ。その事実は獄中の彼にはむろん、マリヤムさんにも知らされていなかった。「拷問による自白だったとの弁明の機会も与えられないままにね」。ムハマドさんは怒りをあらわにして言った。

 特別認定テロリストの扱いを受けると、店で買い物をするのも、銀行口座を開くのも、職に就くのも、すべてに当局の許可が必要だった。銀行口座は、たとえ許可を得ても銀行側がかかわりを恐れて開いてくれないケースがほとんどだという。

 ムハマドさんは自営業を断念し、コンピューター技師の資格を取った。シカゴ市立大学でコンピューター技術を教えるなどして生計を立てていた。しかし、ある地元紙でハマスと彼の結びつきを伝える記事が写真付きで掲載されると、大学側はムハマドさんを解雇した。

 「私を直接取材したわけではない。だが、新聞に出てしまうと読者はそれを真実だと思い込んでしまう」とムハマドさんは嘆いた。

 特に二〇〇一年の9・11米中枢同時テロ後は、米国内のアラブ系住民やイスラム教徒への風当たりは強まった。テロリスト扱いのムハマドさんに対する監視も一段と強化された。しかし、すべての行動に許可を必要とした彼には、当局に隠すものは何もなかった。

 ところが〇四年八月、兄と一緒に車で出かけたところを連邦捜査局(FBI)員に捕まり、連行されたのだ。そして翌日。当時のジョン・アシュクロフト司法長官らが出席し、大々的な記者会見が開かれた。ムハマドさんともう一人を「ハマスの財政支援などにかかわるテロリスト」として逮捕、起訴したと発表。新聞やテレビで大きく取り上げられた。

 ドイッチさんは二人の逮捕を「政治目的のためのスケープゴート(いけにえ)にされた」と断言する。というのも、彼らが逮捕されたのは〇四年秋の大統領選に向けて共和党の候補者を選ぶ党大会の直前。ブッシュ大統領の選出は確実視されていたが、「テロリストが身近にいるとの恐怖心を国民に与えると同時に、それと戦う大統領とのイメージをアピールしたかったのだ」と分析する。

 ムハマドさんの逮捕は九三年の自白に基づいたものだった。ドイッチさんは、拷問による自白の供述書は証拠にならない、ムハマドさんは既にイスラエルで刑を終えている―などの理由を挙げて裁判の棄却を求めた。が、北イリノイ連邦地方裁判所は、その主張を退けた。

 マリヤムさんは、保釈金百万ドル(約一億二千万円)に相当する不動産を親類などに依頼して確保。逮捕から五週間後に夫を家に連れ戻すことができた。「でも今も、夫はこれを着けていなければならないの」と言って、ムハマドさんの右足首を指した。

 腕時計に似た発信器だ。ムハマドさんが家から百五十ヤード(約百三十七メートル)離れると警報が鳴って、治安当局が察知できる仕組み。彼が外出できるのは、弁護士との話し合いなど許可を取った特別なケースのみ。保釈後も自宅での「軟禁」と変わらぬ状況が続く。

 ■隣人も接触敬遠

 逮捕以来、知人も隣人もムハマドさん一家との接触を避けるようになった。盗聴を恐れて電話すらもほとんど掛けてこないという。「今はアラブ系市民みんなが政府を恐れている。愛国者法を適用されて、いつ逮捕されるか分からないからだ」とムハマドさん。

 来年一月に予定されている判決で有罪が確定すれば、二、三十年は獄中ですごさなければならない。反パレスチナ、イスラエル擁護の風潮の強いこの国で公平な裁判が期待できるのか。ドイッチさんがいう「ショー・トライアル(見せしめ裁判)」での有罪判決は、一家にとってあまりにも残酷すぎる。



「自由の国で一番不自由な生活を強いられている」と話すムハマド・サラさんと妻のマリヤムさん。ムハマドさんの足首に巻かれた発信器が無言で現実を物語る(シカゴ市郊外) 同僚の弁護士と意見を交わすマイケル・ドイッチさん。「ユダヤ人がなぜパレスチナ人を擁護するのか」とのユダヤ人からの批判に「同じ人間として正義を求めるのが私の職務」と明快に答えた(シカゴ市)

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