2006.12.03
3.  国外追放   偏見 中東系ゆえの辛酸



 ある土曜日の夕暮れ。ミシガン州南西部ハーバート市にあるレストラン「カフェ・グリスタン」は、大勢の客でにぎわっていた。室内と庭に面したテラスを合わせて百七十席。人口約千七百人の小都市にしては異常ともいえる繁盛ぶり。客のほとんどは中産階級とおぼしき白人たちだ。

 「なかにはシカゴやデトロイトから、車で二、三時間かけて来てくれる人たちもいるんだ」。白髪が目立ち始めたオーナーのイブラヒム・パーラックさん(44)が満面に笑みを浮かべて言った。「それに、ここにいるお客さんの支援がなければ、私はとっくに国外追放になっていた」

 パーラックさんは、トルコ南東部クルド地区にある農村の出身である。「クルド語の使用禁止」など、トルコ治安当局によるクルド人への弾圧を幼少のころから目撃してきた彼は、中学生になるとクルド民族の文化の継承や人権擁護活動に取り組むようになった。

 だが、その活動のために一九七八年、十五歳で逮捕され、トルコの軍刑務所に三カ月間投獄された。八八年にはトルコからの「クルド分離独立運動への参加」を理由に再逮捕。一年四月の有罪判決を受けた。九〇年に釈放されたが、トルコ政府から「危険人物」として国籍をはく奪されたパーラックさんは九一年、米国に政治亡命を求めた。

 そして翌年、「本国への送還は身に危険が及ぶ」と、米政府から正式に亡命が認められた。彼はシカゴ市内のレストランで働きながら、語学学校でゼロから英語の習得に励んだ。学校で知り合い、後にパートナーとなった米国生まれのミシェールさん(46)。彼女と一緒に訪ねたハーバートが気に入り、九四年には中東料理のレストランをオープンした。

 ■地域で支援の輪

 「最初は料理人、ウエーター、皿洗い、と一人で全部こなした。小さなレストランを少しずつ大きくして、今の規模になった」。パーラックさんの「アメリカン・ドリーム」は、料理の味と彼の気さくな人柄、店の雰囲気に引き寄せられた客たちによって築かれていった。

 ところが二〇〇四年七月末、最寄りの連邦捜査局(FBI)から出頭命令がかかった。呼び出し理由は、九三年にパーラックさんが提出し、認められた永住権の申請書類に「重大な偽証が見つかった」というのだ。

 トルコで逮捕されていながら、逮捕歴の項が「無し」になっているとの指摘。パーラックさんは亡命を求めた九一年の入国の際に、トルコでの逮捕歴を含めて隠さずに話し、関連書類も提出していた。永住権の際の質問は、てっきり米在住後のことだと理解し「無し」と答えたのだ。

 「提出書類をすべて調べればすぐ分かること。なぜこんなことが十年以上もたって問題になるのか…」。パーラックさんの懸命の抗弁に、顔見知りのFBI職員は「ワシントンの国土安全保障省からの指示だ」というだけ。その場で手錠をかけられ、ミシガン州バトルクリーク市にある郡刑務所へ連行された。そこには多くの国外追放予定者が収容されていた。

 パーラックさんの逮捕に驚いたのは客たち。これまであまり交流のなかった客同士が互いに声を掛け合って横のつながりをつくり、彼の釈放と市民権獲得のために立ち上がったのだ。

 ハーバート在住の日系人二世ビー・タケウチさん(85)もその一人。シカゴ市内の建築・内装デザイン専門校で教員を長く務め、九三年の退職を契機にこの町へ。店のオープン以来の常連客である。

 「イブラヒムは、とてもハートのある人間。彼のような善良な人まで追放しようなんて信じられない」。自宅で会ったタケウチさんは、年齢を感じさせない張りのある声で言った。

 「五年前の9・11テロ事件後、政府はテロ防止を理由に、アラブ系や中東にルーツのある人たちに理不尽な扱いをしている。第二次世界大戦中、私たち日系人は危険視されて強制収容所へ入れられたけれど、そのときと状況がかなり似ている」

 太平洋戦争が始まった四一年十二月、タケウチさんは生まれ故郷のワシントン州シアトル市に住んでいた。翌四二年五月、亡くなった父の後を継いで邦字紙を発行していた母親、四人の兄弟、祖父と一緒にアイダホ州のミニドカ強制収容所へ送られた。

 「アメリカ生まれの私たちを含めて、敵性国家の人間として扱われた。それまでこつこつと築いてきたものを、偏見や差別による強権で一瞬のうちに失うつらさはよく分かるのよ」

 米国政府は八八年に、第二次大戦中の日系人強制収容を正式に謝罪した。タケウチさんは「今回はアラブ系住民らを強制収容所に送る代わり、テロリストかどうかの区別も十分しないままに、国外追放している」と政府を批判する。

 ■再入国もできず

米国土安全保障省
 2001年の9・11米中枢同時テロを教訓に、ブッシュ政権がテロの脅威・攻撃から米国本土を守るために推進し、03年1月から業務を開始した新しい連邦政府機関。テロ防止への国家戦略の策定・実施を有効に行うために、対テロにかかわる22の連邦機関を統合。職員は18万人で、国防総省に次ぐ規模となった。

 国土安全保障省に移行した主な機関は、連邦緊急事態管理局(大統領直轄)、航空管制局(運輸省)、移民帰化局及び国境警備隊(司法省)、税関(財務省)、大量破壊兵器攻撃対策プログラム(エネルギー省)などである。各機関は「国境警備と運輸の安全」「緊急事態への準備と対応」「科学技術」「情報分析と社会基盤の保護」―という4分野に分かれている。各州には国土安全保障局が設置されている。
 米国最大の人権団体、全米市民自由連合(ACLU)は「その影響はアジア、アフリカ、中南米からの留学生、永住権や就労ビザを所持する合法的滞在者にまで及んでいる」と指摘する。例えば、身内の結婚式や葬儀出席のため、母国に一時帰国した人たちに再入国ビザが下りないなどの事例が頻繁に発生しているという。

 パーラックさんのように支援組織ができるのはまれなケースである。毎週木曜日の接見日には、支援者三人がパーラックさんの一人娘リビアちゃん(9)を連れて刑務所まで面会に出かけた。デトロイトであった〇四年十二月の移民裁判所での最初の審理には、バスを貸し切り、五十五人が傍聴に出かけた。

 「全員が『FREE IBRAHIM(イブラヒムを釈放せよ)』のそろいのTシャツを着てね。当局に対してかなりの圧力にはなったと思う」。こう話すのは、妻と一緒に参加した元高校社会科教員のトム・ハッケリーさん(62)だ。

 地元選出の上院議員や下院議員への働き掛け、マスコミへの対応、ホームページの開設…。寄付者のリストも二千人を超えた。裁判など専門的な対策は、七人の弁護士がボランティアで当たる。

 クルド語で「バラの土地」を意味する店名の「グリスタン」。パーラックさんが丹精込めて育てた庭の花は、ハッケリーさん夫妻らが交代で水をやった。店の営業も、兄を頼って米国にやって来たパーラックさんの末弟(36)や従業員らが協力して続けた。そして逮捕から十カ月後の昨年六月初め、支持者らの働きかけがようやく実って保釈が実現した。

 ■かたくなな政府

 しかし、当事者や支持者らにとって、それは一歩前進にすぎない。国土安全保障省はパーラックさんに対して、今もなお「追放可能」との立場を変えていない。かたくなな政府の姿勢に、地元選出の上院議員(民主党)は昨年十二月、彼に対する不当な扱いをやめ、安心して米国に住めるようにすべきだとの個人法案を上院議会に提出した。

 パーラックさんは今も一週間に一度、FBIに電話し、住所など変更がないことを伝えなければならない。さらに二週間に一度、片道約三百四十キロをドライブし、デトロイトにある国土安全保障省管轄の移民事務局へ現況報告に出向く。

 今なお無国籍状態のパーラックさん。連邦裁判所の裁決が下るのは、来春以降の予定だ。ハッケリーさんやタケウチさんら支援者は「問われているのは、アメリカ人としての私たちの価値観」と口をそろえる。

 一人の人間の基本的人権を守り、この国の「正義」を取り戻すために、どれほど多くの市民の膨大なエネルギーと時間、金が注ぎ込まれていることか。だが、その一方で支援が得られぬ人々の国外追放は続いている。その数は〇五年だけで十万人以上といわれる。



「カフェ・グリスタン」で夕食を楽しむ客たちと談笑するイブラヒム・パーラックさん(中央)。「家庭やレストラン、地域の人々との友情…。ここで築いたものが私の人生のすべて。それを失いたくない」(ハーバート市) 「アラブ系住民や中東出身者には同情を禁じ得ない」と、自らの収容所体験を重ねて語るビー・タケウチさん(ハーバート市)

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