2006.12.10
4.  グアンタナモ収容所   イスラム教徒 スパイ視



 米元陸軍大尉で、軍付属イスラム教司祭のジェームズ・イーさん(38)は、古めかしい車に乗って現れた。ワシントン州の州都オリンピア市。彼の住むアパート群の管理棟が約束の面会場所だ。

 「家の方が取り込んでいるので」。彼はそう言いながら、居住者共用クラブハウスのソファに腰を下ろした。小柄だが軍隊で鍛えたがっしりとした体つき。頭にかぶった縁なし帽子が、イスラム教徒であることを示していた。

 「ブッシュ大統領は『テロとの戦いはイスラム教徒との戦いではない』と言っている。でも、グアンタナモ収容所では『イスラム教徒はみなテロリスト』という扱いを受けているのが実態だ」。中国系アメリカ人三世のイーさんは、歯に衣(きぬ)着せぬ口調で言った。

 キューバ東南端にあるグアンタナモ米海軍基地。カリブ海に面した基地の一角に、軍統合部隊によって管理運営される収容所施設がある。二〇〇一年の9・11米中枢同時テロ後の「テロとの戦い」で、米中央情報局(CIA)や米軍などに捕まった国際テロ組織アルカイダや、アフガニスタンのタリバン関係者とみられる「敵戦闘員」が〇二年一月から次々と送り込まれた。

 イーさんは当時、アパート近くのフォートルイス陸軍基地に勤務。9・11テロ以後、イスラム教徒への風当たりが強まる中で、基地内の信者約百人の祈りの確保や金曜礼拝などを行っていた。

 そんなイーさんにグアンタナモ収容所への配転命令が出たのは、〇二年九月。司祭として「テロリスト」たちにどう接すればいいのか。「正直戸惑いはあった」という。

 だが、予備役中の九五年から四年余り、シリアの首都ダマスカスの大学で神学を学び、アラビア語も習得。「イスラム文化やアラビア語が分かる自分だからこそ、グアンタナモ収容所での役割もあるはず」。イーさんはそう確信していた。

 ■拷問や嫌がらせ

 パレスチナ系シリア人の妻フダさん(32)と一人娘のサラちゃん(7)を、妻の両親が住むシリアへ送り出した彼は十一月、フロリダ州経由でグアンタナモに着いた。

 「この収容所は、テロとの戦いの重要な施設」。そう信じて赴任したイーさんだが、目前の光景に強いショックを受けたという。「六百六十人以上の収容者が十九のブロックに分けられ、金網に囲まれたおりのような所に入れられていた、まるで動物のようにね」

 全員がイスラム教徒だった。司祭のイーさんはすべての収容者と接することが許されていた。「私はまず自分たちと同じように、彼らがメッカに向かって一日五回の祈りができることや、豚肉を料理に加えないなどイスラムの教えにあった食事ができるように当局に働きかけた」。看守たちは「敵」の肩をもつイーさんに冷淡だった。

 収容者たちはアラビア語ができるイーさんに心を開き、不満や苦痛を訴えるようになった。別棟での尋問官による激しい拷問もその一つだ。

 「殴打や睡眠のはく奪、いてつくような部屋への閉じ込め、犬による脅し、女性尋問官による性的な嫌がらせ…。看守たちも、彼らの前でイスラム教の聖典であるコーランを床に投げるなど侮辱的な行為を取った」

 「まるでイラクのアブグレイブ刑務所で起きた、米軍による収容者への拷問のようですね」。私がそう言うとイーさんは「『アブグレイブをグアンタナモのようにしたい』というのが、現場最高責任者のジェフェリー・ミラー司令官の願いだった。彼はアブグレイブ刑務所を訪ねて指導し、後にそこの司令官となった」と、両施設のつながりを説明してくれた。

 イーさんは陸軍幹部養成校のウエストポイント陸軍士官学校(ニューヨーク州)の卒業生だ。軍人としてのモラルを学校でたたき込まれた彼にとって、拷問は決して許される行為ではなかった。イーさんは「捕虜への拷問はジュネーブ条約で禁止されている。すぐにも中止すべきだ」と上官に訴えた。

 ■少年の収容者も

グアンタナモ 米海軍基地収容所
 「テロとの戦い」を契機に生まれた収容所には、2002年1月以来、アフガニスタンなどから約750人が収容された。米政府は彼らを「敵戦闘員」と呼び、捕虜の扱いを決めたジュネーブ条約(1949年)の「戦争捕虜」には当たらないと主張してきた。

 しかし、虐待や長期の拘束などから今年6月には3人が自殺。ハンガーストライキもしばしば起きている。自殺があった6月には、米連邦最高裁が、グアンタナモ基地内の特別軍事法廷について「違法」と判断。国内外の人権団体や国連、欧州議会などからも閉鎖を求める声が強く上がっている。が、ブッシュ政権は「テロとの戦いにとって必要」との立場を今も変えていない。

 これまでに約300人を釈放、あるいは他国へ引き渡した。今もサウジアラビア、アフガニスタン、イエメンなど約40カ国の450人が拘束されている。
 収容者の中には十二歳から十八歳までの少年が十人前後いた。容疑も分からず、一年以上裁判にもかけられずにいる大多数の人たち…。精神状態に異常をきたす者も少なくなかった。イーさんの目には、ほとんどの収容者がテロとは無関係に映った。

 暑さと、「中国人タリバン」という陰口に耐えながら、イーさんは数人のイスラム教徒の兵士らと協力して、収容者たちの待遇改善に努めた。そして就任から十カ月、ようやく二週間のまとまった休暇が取れた。〇三年九月十日。彼はシリアから帰国する妻子との再会を心待ちにしながらフロリダ州ジャクソンビルの海軍空港に降り立った。

 が、待ち受けていたのは思いもよらぬ逮捕。バッグの中のコーラン、手帳、書類などすべての紙類とパソコンが没収された。そして海軍犯罪捜査局員らによって近くの海軍刑務所に連行された。逮捕理由は「機密書類の持ち出し」だった。

 思い当たる節のないイーさんは「何かの間違いだろう」と信じていた。だが、そんな思いも逮捕五日後に知った拘置理由で吹き飛んだ。ミラー司令官が、イーさんがテロリストとかかわり、スパイ行為など「死刑に値するいくつかの重大な犯罪行為を犯した疑いがある」との「覚書」に署名していたのだ。

 海軍所属検事は@スパイ行為A破壊活動B利敵行為C扇動活動―などイーさんに対する六つの罪状を挙げ「最厳重警戒が必要である」と指摘。翌日にはサウスカロライナ州チャールストンの海軍刑務所へ移送され、独房に収監された。

 そして逮捕から十日後。「ある政府筋」から得た情報として、イーさんの逮捕が一紙に大々的に報道された。彼はグアンタナモで、テロの陰謀にかかわるイスラム教徒の中心人物とされた。テレビや新聞などマスコミ各社がニュースを追いかけ、一層扇情的に報じた。

 オリンピアの自宅にはFBIや国防総省の捜査員らが訪れて家宅捜索。恐れるフダさんに、夫がほかの女性と一緒に映っている写真などを見せてショックを与え、捜査に協力させようとした。

 だが、罪状を裏付ける証拠はどこからも出てこなかった。九月二十六日、イーさんは軍の弁護士から「六つの罪状はすべて取り下げられた」と伝えられた。が、それに代わって上官の命令に対する不服従と機密情報の取り扱い不注意が新たな罪状となった。

 「政府は私がテロリストで、スパイだということをマスコミを通じて流布した。後の罪状は、政府の過ちを取り繕うためのもの。うその情報を流すことで、政府の目的は果たせたのかもしれない」。イーさんは三年前を振り返って言った。

 逮捕から七十六日間の独房生活。ようやく釈放された彼には、新たに不貞行為とポルノ画像をパソコンに取り込んだとの罪状が加わった。しかし、四つの罪状も〇四年四月にはすべてが取り消され、晴れて無罪となった。が、イーさんの信望は傷つき、職業軍人として歩み続ける可能性を困難にした。

 「私は宗教的な自由と多様性を認め合い、寛容であることがアメリカの最も大事な価値観だと考えてきた。憲法の理念でもあるその価値観を守ろうとしたことが罪に問われた」

 ■抗議込めて辞職

 彼は裁判決着後、フォートルイス基地に戻り勤務した。だが、謝罪を求めた政府や軍からの返事はなかった。抗議の意思をこめ八月には辞職届を提出。〇五年一月に名誉除隊となった。

 イーさんは除隊後、全米各地の大学や人権団体などの招きで自らの体験を語ってきた。その中で彼は「9・11テロ二周年を前に『スパイ網の首謀者』として自分を逮捕した目的は何だったのか」と問い続ける。

 私の疑問もそこにあった。ブッシュ政権が国民にテロへの恐怖心を与え、それと戦うための強力な行政府が必要なことを訴えるためだったのではないだろうか。

 その問い掛けにイーさんは「私もそう思う。でも、本当の回答はまだ得られていない。追及し続けることが、この国の真の民主主義につながるだろう」。イーさんは強い決意を表情ににじませて言った。



自らの収容所体験をつづった著書「神と国家のために」を手に、「グアンタナモ収容所やアブグレイブ刑務所は、アメリカの汚点を世界中の人々に知らしめてしまった」と残念がるジェームズ・イーさん(オリンピア市)

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