2007.01.07
7.  下院議員   憎しみ超えよ 変革信じ動く



 水曜日の午前。米民主党下院議員のデニス・クシニッチさん(60)は、首都ワシントンの下院議員会館で、国内外の訪問者と精力的に面会をこなしていた。七階の事務所入り口の待合所で待つこと三十分。ようやく私の番が回ってきた。

 「お待たせ」。差し出された手は、ほっそりとした体つきに似ず大きかった。相手を見つめる目にも、どこか優しさが宿る。

 「日本へは早い機会に訪問して、多くの人々と意見を交わしたいと思っている。核兵器廃絶や世界平和の確立など、政治家として私が力を入れている活動分野は、日本の政治動向や人々の関心と深くかかわっているからだ」

 質問よりも先にこんな言葉が飛び出した。「広島・長崎の体験は、暴力によっては何も問題が解決しないことを教えている。その教訓を人類はいまだに学んでいない」。公の場でこう主張し、イラク戦争にも一貫して反対を続けてきたクシニッチさんらしい出会いのあいさつであった。

 ■「憲法から逸脱」

 オハイオ州クリーブランド市生まれの移民二世。トラック運転手の父はクロアチア、専業主婦の母はスロバキアから米国へ渡った。七人きょうだいの長男。十七歳までに二十一回も引っ越しを体験。貧しいながら「ぬくもりのある家庭」に育ったという。

 カトリック系の学校で僧尼らから倫理や公共奉仕の精神を学んだクシニッチさんは、早くから政治に目覚め一九六九年、二十三歳でクリーブランド市議会議員に。七七年、三十一歳で全米の主要都市では最年少の市長に選ばれた。オハイオ州上院議員などを経て九七年に連邦下院議員に初当選。一月から六期目に入る。

 9・11テロ事件後のアメリカの政治と社会をどう見ているか? その問いにクシニッチさんはしばらく黙した後にこう答えた。

 「われわれは政治的にも精神的にも袋小路に入っている。国家として憲法の説く道から逸脱し、恐怖心が中毒のようにまん延することで、政治構造が戦争、破壊、軍国主義へと変質してしまっている。この構造を変えるために真の変革が必要だ」

 それには共和党から民主党に政権が代わるだけでは不十分だという。戦争から平和へ、貧困からすべての人たちにとっての繁栄へ、一国至上主義から多国間の国際協力へ、人々の分断からつながりの強化へ―。クシニッチさんは、発想の転換を伴うこうした変革こそが求められていると強調する。

 イラクからの米軍撤退についても、民主党の多くの下院議員を束ねて議会や政府に働きかけてきた。政治的、経済的、軍事的に中東地域を支配するという考えからは「地域の平和も、自国の安全保障も得られない」と明言する。

 安全保障にとって一番大切なのは「国や宗教、人種の違いを超え、人間としての信頼関係を築くことだ」と迷わずに答える。彼は二〇〇六年八月下旬に、妻のエリザベスさん(29)と訪れたレバノンでの体験について語った。

 レバノンでは昨年七月、イスラエル軍の空爆や地上攻撃により空港をはじめ多くの建物などが破壊され、千人を超す犠牲者を出していた。攻撃は、レバノンのイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラに誘拐された二人のイスラエル兵への報復措置として実施された。

 何千もの家々、給水・下水施設、電気・通信システム、病院、学校、共同墓地までが破壊されていた。「どこへ行ってもまだ死臭をかぎとることができた」

 ■レバノンの悲劇

平和省
 2001年7月、米下院議員のデニス・クシニッチさんが「平和省」の法案を初めて下院議会に提出。内閣の一つとして平和長官を設け、平和教育のための「平和アカデミー」の創設、毎年1月1日を「平和の日」とすることなどを提唱した。この後、市民の間にも徐々に関心が広がり、イラク戦争開戦直後の03年4月に、首都ワシントンで「第1回平和省会議」が開かれた。

 全米市民組織「平和連合」が推進窓口となり、市・州・連邦議員らへのロビー活動や、地域住民への広報活動に取り組む。05年9月の平和省会議には、全米40州から約500人が参加。同月、上下両院議会にそれぞれ提出された新たな平和省法案には、下院議員75人、上院議員2人が共同提案者として名を連ねた。アトランタ、シカゴ、クリーブランドなど全米主要18市の市議会も法案を支持している。

 平和省の目的は、国際紛争を非暴力で解決することを目指す。と同時に、国内で起きている家庭内暴力や子どもへの虐待、社会的暴力を、平和文化をはぐくむことで減少させるのが狙い。そのための研究や平和教育などを行い大統領府や関連の政府機関により良い政策提言をする。

 国際的には大量破壊兵器の拡散や地球温暖化など人類が直面する脅威に対して、各国が協力して取り組まなければ人類は生き延びることができないとの認識がある。

 平和省設立の動きは日本、英国、カナダなどへも波及。05年10月にはロンドンで、11カ国約40人が参加し「第1回国際平和省会議」が開催された。06年6月にはカナダのビクトリアで、19カ国45人が集い第2回会議があった。国際会議では、日本国憲法の前文と第9条が「世界平和建設のための人類への贈り物」と高く評価された。
 クシニッチさんは「これを見せるのはあなたが初めて」と言って、隣の部屋から褐色の金属の破片を抱えてきた。米国製の千ポンド(約四百五十キロ)爆弾の破片である。訪問地の一つ、イスラエル国境近くのカナ市の崩壊アパート現場に転がっていたのを持ち帰ったのだ。そのアパートでは、少なくとも二十七人が犠牲になったという。

 町の広場に急きょつくられた共同墓地。遺体を埋葬した幾列もの墓。その一つ一つに死者の写真が飾られていた。足元には九カ月になったばかりのかわいい男の子の写真もあった。その墓前で涙する夫妻に「こちらにも来てほしい」という男性がいた。彼が誘った墓には、女性と三人の子どもの写真が飾られていた。

 「これは私の家族だ」。男性は言った。アメリカの議員が来ているとのうわさが広がり、二人の周りには人垣ができていた。

 「その男性や集まった人たちは、米国製の爆弾で肉親を殺されたことに対して、恨みや憎しみを私たちにぶつけても不思議ではなかった。でも彼らは口々に言ったのだ、『自分たちはアメリカの指導者がやっていることは好きではない。しかし、アメリカは好きだ。そのことをアメリカ人に伝えてほしい』と」

 彼らは「自分たちはテロリストではない。平和に生きたいだけだ」とも言った。

 「このときの体験は私たちにとって生涯忘れることはできない」とクシニッチさんは振り返る。彼らは大きな苦しみを味わいながら、なぜここまで広い心を持ち、人を許すことができるのか…。

 「広島や長崎の悲劇を体験した日本人も、カナの人々の気持ちがきっと分かるだろう。同じように憎しみを超えて平和を希求した過程があるからだ。彼らの苦しみは、バグダッドやガザ(パレスチナ)の、内戦下のスーダンの、世界の人々の苦しみでもあるのだ」

 私も爆弾の破片を抱えてみた。実に重い。クシニッチさんは、この破片を議員らに示しながら、米国製の爆弾がどれほど多くの罪なき人々の命を奪っているかを広く伝えていくつもりだ。犠牲になった遺族らの思いとともに。

 クシニッチさんの名前を知る日本人はなおわずかだ。だが、このような議員が米国にいることを知るのは、勇気づけられることではあった。

 翌朝早く、私はワシントンから空路クリーブランドへ向かった。そして午後にはエリザベスさんが提唱した平和行進を取材していた。オハイオ州オービリン市からクリーブランド市までの約八十キロを十日間かけて行進。途中、大学や教会などで対話集会を開き、米政府内に「平和省」の設立を呼び掛けたり、イラクからの米軍即時撤退を訴えたりしてきた。

 この日は行進の最終日。五十人近くが、思い思いのプラカードなどを手に、クリーブランド市街中心部の公園を目指して約三キロを歩いた。エリザベスさんも「平和省」をアピールする手提げ袋を携え、道行く人たちに平和省についての小さなしおりを手渡していた。

 英国人の彼女は、〇一年に母国の大学で「国際紛争における対立の解消」をテーマに修士号を取得。〇二年一月から約一年半、タンザニア中央部の貧しい地域で、英語を教えるなどのボランティア活動に従事した。

 その後、ロンドンの教会関係の慈善活動にかかわっていたが、「力で国際問題を解決しようとするアメリカ人の考え方を変えたい」と〇五年四月に渡米。五月にクシニッチさんと出会い、同じ志を抱くパートナーとして八月に電撃結婚をした。

 エリザベスさんはこの日夜、クリーブランド郊外にある私立ジョン・キャロル大学で開かれた学生主催の「平和のためのキャンプ」に招かれていた。学生たちが、芝生の校庭で夜通し平和や戦争について語り合おうとの趣旨だ。午後九時すぎ、クシニッチさんもクリーブランド空港から車で直接駆け付けた。

 ■学生に共感の輪

 夫妻は集まった六十人余の学生たちに、レバノンでの体験を語りながら、アメリカ人としての責任の自覚と、変革に向け共に勇気をもって歩もうと語り掛けた。月明かりの下、震えるような寒さの中で若者たちは一心に二人の言葉に耳を傾けた。

 夫妻に促され、私も十分ほど広島の被爆体験について話し、その体験からはぐくまれた非戦と平和、核兵器廃絶への思いを伝えた。

 約一時間半にわたる学生たちとの交流。若者からは「恐怖心からは建設的な考え方は生まれない」「徴兵制が敷かれていたら、自分もイラク人に銃を向けていたかもしれない」など、戦争や平和について身近な問題としてとらえようとする発言が相次いだ。

 三人でクリーブランド市内へ戻る車中、クシニッチ夫妻は学生たちの真剣な反応に意を強くしながら言った。「私たちの役割は、人々が本来持っている善い人間性や勇気に灯をともすこと。世界とともに歩むアメリカを早く取り戻したい」

 クシニッチさんは十二月十三日、彼の政治の「原点」であるクリーブランド市役所で、〇八年の民主党大統領候補への出馬表明演説をした。

 米国の現在の政治状況を考えれば、彼が候補指名される可能性は極めて低いだろう。だが、貧しい人たちの立場に立ち、高い政治理念を掲げて果敢にリーダーシープを発揮するクシニッチさんの訴えは、国内だけでなく国外にも共感の輪を広げつつある。


月明かりの下、「平和のためのキャンプ」に集った学生たちにレバノンでの体験を話すデニス・クシニッチさんと妻のエリザベスさん。「平和のために何ができるか一人一人が考え、取り組もう」と呼び掛ける(クリーブランド市郊外) 紛争地での体験に基づいたクシニッチ夫妻の話に耳を傾けるジョン・キャロル大学の学生たち。戦争・平和の問題を自分たちの課題としてとらえようとする姿勢が印象的だった(クリーブランド市郊外)
米下院議員会館の事務所でレバノンの国会議員(右)と平和構築について意見を交わすクシニッチさん。外国からの面会者も多い(ワシントンD.C.) 10日間にわたる平和行進の最終日、「平和省」設立をアピールする手提げ袋を手に参加者と一緒に歩くエリザベスさん(クリーブランド市)
米下院議員会館にほど近いワシントン・モニュメント前の広場に出現したイラク戦争での米軍戦死者の墓標。平和市民団体がプラスチックでつくった墓の数は2800柱に達した(ワシントンD.C.) イスラエル軍が昨年7月のレバノン空爆で使用した米国製の1000ポンド爆弾の破片

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