2007.01.21
9.  元海兵隊員   戦争反対の兵士 支援



 「こちらでーす」。声のする方に目をやると、一軒家の玄関先から大柄なジェフ・パターソンさん(38)が、手を振っていた。カリフォルニア州オークランド市の小高い丘の上。家を探し当てることができない私を案じて玄関に出てくれていた。

 身長二〇〇センチ、体重一〇四キロ。見上げるような元米海兵隊員は、市民平和団体の事務所を兼ねた自宅二階で、先週このシリーズで紹介したエレン・ワタダ陸軍中尉(28)との関係などについて語った。ワタダ中尉は「イラク戦争は違法で不道徳である」として、イラクへの派遣を拒否、軍法会議にかけられている。

 「エレンが私に連絡をしてきたのは、二〇〇六年の三月。彼がイラク行き拒否を上官に伝えて二カ月後のこと。戦争反対者の支援をしている情報をインターネットで検索していて、私の名前を見つけたのだ」。パターソンさんは、愛用のデスクトップを前に言った。

 個人的な良心に基づいて戦争への参加を拒否した彼は、一九九〇年十二月に軍を除隊。その後、「抵抗への勇気」などの市民団体を通じて、戦争に反対する兵士らをサポートしてきた。

 ワタダ中尉もその一人。電子メールや電話で中尉とやりとりしたパターソンさんは「イラク戦争に反対するエレンの主張と良心を多くのアメリカ市民に知ってもらい、幅広い支持を得る必要がある」と、〇六年六月一日にウェブサイト(ホームページ)を開設した。

 サイトのタイトルは「ありがとう、エレン・ワタダ中尉」とした。多数のアメリカ市民の思いを彼が代弁してくれていることへの感謝の意味を込めた。

 サイトの開設で、ワタダ中尉のことがまたたく間に全米のイラク戦争反対者らの間に広がった。パターソンさんはその立役者だ。除隊後に大学で二年間学んだコンピューター技術を駆使するだけでなく、ワタダ中尉を支援する主要な集会やデモに出かけては、その様子を写真と文章でサイトに掲載した。

 「すべての技術は必要に迫られて身に付けた」と豪快に笑う。

 ■就職先に軍選ぶ

 カリフォルニア州中西部のホリスター市で生まれ育った。彼が故郷で過ごした当時の人口は約一万人。広大な農地と軍需工場があるだけ。ドイツ系の父(64)も母(60)も、ミサイルやスマート爆弾などの部品をつくる工場で働いていた。今はサンノゼ市などへ通勤する郊外住宅地となり、人口も三万人近くに膨らんだ。

 「高校時代、私は大学へ行きたくなかった。卒業後は農場か軍需工場で働くか、軍隊に入るしかなかった。多くの若者は就職先として軍を選んだ」。パターソンさんが高校を卒業した八六年、同じ高校の同級生百五十人のうち七人が海兵隊に入隊した。

 農業や工場勤務は退屈に見えた。十八歳。血気盛んなパターソンさんは冒険を求めた。軍に入隊して広い世界に触れてみたかった。常に「前線で戦う」海兵隊にあこがれた。愛国心から陸軍に入隊したワタダ中尉とは、入隊動機が違っていた。

 実際に入隊すると「気分のめいる」訓練が待っていた。「キル、キル、キル(殺せ、殺せ、殺せ)…」。M16ライフルを手にした初年兵は、そんな雄たけびを上げながらほふく前進したり、走ったりを繰り返した。

 人を殺すことに慣れるための兵士への洗脳。「軍隊ではそれを洗脳と言わず、訓練と呼ぶんだよ」とパターソンさん。

 ■せいぜい必要悪

 基礎訓練と砲兵隊員としての特別な訓練を国内の基地でそれぞれ四カ月間受けたパターソンさんは沖縄へ派遣された。沖縄で延べ一年と九カ月、韓国でも首都ソウルに近い基地に半年駐留。フィリピンでは二カ月間、大規模な軍事演習に参加した。そして八九年にハワイ・オアフ島の海兵隊基地に配属された。

 「外国へ行けば、その地の文化を学んだり、われわれの文化も教えたりできるだろう」。淡い期待と現実はあまりに違っていた。「韓国では学生たちが米軍駐留に反対してデモをし、農民たちは怒っていた」。沖縄を含め、一般市民との接触は難しかった。

 沖縄、韓国、そしてフィリピンでも程度の差はあれ、米軍基地のあるところはどこか似通っていた。「われわれ兵士はその国の安全保障に役立っているのか。単に売春婦や特定の店など狭い世界の経済を潤しているにすぎないのでないか…」。パターソンさんは在外米軍基地の存在に多くの疑問を抱き始めた。

 「外国ではわれわれは、良くてもせいぜい必要悪とみなされているだけ。心から歓迎されることはない」。海兵隊員として、約二年半をアジア三カ国の基地で過ごした彼の結論だった。

 任期四年の最後の年となったハワイでの任務。そこでの訓練は、今もパターソンさんの脳裏に焼きついて消えることはない。

 その訓練は、198ミリ砲を使った戦術核攻撃だった。訓練では模造の核弾頭を使用した。彼は、目標物に対する砲弾の角度を決めたり、実際に核弾頭を発射したりする優秀な「コントローラー」だった。

 訓練期間中にヒロシマとナガサキの生々しい惨状を映し出したビデオを見せられた。核兵器がいかに有効に使用されたか、人体や建物破壊にいかに効果を発揮したかを学ぶためである。

 「それを見ることで、必要となれば確実に核砲弾が使用できるよう、ちゅうちょする心を克服し、使用後も良心の呵責(かしゃく)を覚えなくて済むようにするためだった」とパターソンさんは指摘する。

 私はこれまでヒロシマやナガサキの惨状の持つ重みが、その後の核戦争防止に大きな役割を果たしてきたと信じてきた。いや、今もそう信じている。だが現実はヒロシマ・ナガサキの惨禍をも新たな核戦争に利用するほど人間は愚かで、冷酷な一面を持ち合わせているのだろう。

 パターソンさんの任期は九〇年の八月末。「だれも殺さずに兵役を終えることができる」。そう思っていた矢先、サダム・フセイン独裁政権下のイラクが、八月二日にクウェートに侵攻した。湾岸戦争の発生は翌年の一月だが、米軍はその時点でイラクとの戦争は不可避だとみなしていた。

 中東の新たな情勢を受け、大佐が大隊の兵士全員を集めて言明した。「もしもすべてがうまくいかなければ『銀の砲弾』を使用する」と。耳慣れない「銀の砲弾」とは、問題を解決する確実な方法、すなわちパターソンさんが訓練を受けてきた核砲弾を発射することを意味した。

 ■「中東」行き拒否

ワタダ中尉の支援団体
 「ありがとう、エレン・ワタダ中尉」のウェブサイト(ホームページ)には、全米規模や地域単位で平和や正義の実現に取り組む計147の市民団体が名を連ねている。全米では「平和のための退役軍人」や100以上の平和団体を束ねた「平和と正義のための連合」などがある。地域的には「平和のためのニューオーリンズの声」などが並ぶ。各団体が独自のサイトを紹介、ネットワーク化されている。

 日系アメリカ市民連盟(JACL)は、昨年7月20日にワタダ中尉のケースに関して「イラク派遣の命令を拒否したことの是非をJACLは判断する立場にはない」との声明を発表した。が、ワタダ中尉の出身地であるJACLホノルル支部は、イラク戦争の違法性、不道徳性を理由にしたワタダ中尉の行動を全面的に支持している。
 大佐の発言を聞いたパターソンさんは「自分には核砲弾は使えない。良心に従って戦争への参加を拒否するしかない」と心に決め、八月十六日、その意思を上官に表明した。拒否された彼は、抗議の断食を始めた。八月三十日。上官はこの日中東へ向かう十数名の有志を募った。「上官は罰として私だけを指名したのだ」

 パターソンさんは、飛行機搭乗前に自分の車を基地外に保管する許可を得た。監視員として同乗したのは、偶然にも最も親しい仲間だった。彼は仲間の暗黙の了解を得て、これまでに接触のあった支持者に連絡。基地に戻る際には、ゲートそばで記者会見を開き、テレビカメラの前で公然と中東行きを拒否した。

 パターソンさんはその後、パールハーバー基地の営倉に二カ月間収監された。十一月末に予定された軍法会議で、検察側は五年の刑を求めた。しかし、パターソンさんの無罪放免と湾岸戦争に反対する基地外の運動が広がり、結局、彼は刑を受けないまま十二月に除隊となった。差し迫った湾岸戦争を円滑に遂行することの方が、軍にとってより重要だった。

 「エレンの軍法会議のケースも私に似ている。検察が求める六年という刑の減刑、無罪を求めるだけでなく、イラク戦争そのものに反対する声を大にすることが重要なんだ」とパターソンさんは強調する。

 ワシントン州タコマ市のフォートルイス陸軍基地で、二月五日に開かれるワタダ中尉の軍法会議。パターソンさんは一月四日にあった検察、弁護側双方の事前の聴聞会にも立ち合った。

 「判事はイラク戦争の違法性について審議をするのはなじまないとの立場だ。それを崩すのは世論の力。メディアを含め、軍法会議への世論の関心を一層高めたい」

 パターソンさんから届いた電子メールにはそう記されていた。


「エレン・ワタダ中尉と16年前の自分の姿が重なる」と話すジェフ・パターソンさん。「軍への入隊は比較的簡単だが、抜け出すための決心は非常に困難を伴う」とも(オークランド市) パターソンさんが中心になり、昨年6月に開設したワタダ中尉を支援するウェブサイト。米国内の多くの平和団体の活動を知ることもできる

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