2007.02.04
11.  反戦退役軍人   目的見えぬイラク戦争



 首都ワシントンの大統領府に近いナショナル・モールには、米軍のイラク即時撤退を求め、さまざまな市民平和団体が合同でキャンプをはっていた。「戦争に反対するイラク退役軍人」(IVAW)のギャレット・ラッペンハーゲンさん(31)も、全米各地から集ったほかのメンバー十数人と一緒に参加していた。

 「私にとっての平和活動は、イラク戦争で受けた心の傷や罪意識を和らげるためのもの。自分がイラクで何をしたか。それを告白することで心のバランスを保っている」

 サングラスにアラブ風のスカーフを首に巻いたラッペンハーゲンさんは、歩道沿いのベンチに腰を下ろし、イラクでの体験を語った。

 「イラクへ派遣されたのは、二〇〇四年二月。陸軍の斥候隊狙撃兵として、バグダッド北東約三十五マイル(約五十六キロ)のバクバ市に駐留した。サダム・フセインの影響の強いスンニ派トライアングルの一角だった」

 彼は他の六人とチームを組み、バクバ市内や周辺をパトロールした。米軍基地に迫撃砲を撃ち込んだり、道路わきに爆弾を仕掛けたりする「敵」を攻撃し、家々を捜索して不審者を捕まえた。

 バグダッドにあったアブグレイブ刑務所でのイラク人への拷問、テロリストの拠点だとして大規模な攻撃を加え多くの住民をも殺害したファルージャ事件…。ラッペンハーゲンさんの駐留中、米軍がこうした事件を起こすたびに「治安のためのパトロールが困難になっていった」という。

 待ち伏せされ、いつ攻撃を受けるかもしれなかった。「毎日が緊張の連続。恐怖心との闘いでもあった」と当時を思い起こす。

 家の中に人が残っているのに気づかず爆破したこともあった。ビルの窓が光っただけで思わず銃を発射。その瞬間、偶然子どもの顔が窓にのぞき、その子をあやめてしまったことも。

 「攻撃を受けても大勢人がいると、相手を特定できない。たまたま走っている者がいると、その人間が犯人だと思い込んで攻撃を加えてしまう。多くの場合、過剰に反応して周辺の者まで巻き添えにする。それが兵士たちの戦場心理なのだ」

 ■90%以上民間人

 イラク戦争の死傷者の「90%以上は民間人」という。市街戦などで戦闘後に死体を確認すると、ほとんどがイラク人。彼らが常に身に着けている身分証明書で判別できるというのだ。

 「ブッシュ大統領らが主張するような外国人テロリストはごくわずか。われわれに銃を向けるのはその地や近郊に住むイラク人。彼らは『占領軍』としてのアメリカ兵に抵抗しているのだ」

 米兵たちは、見えない敵にいら立ち、無防備の市民を殺害しては罪意識を覚え、仲間を失っては報復心に駆られた。

 イラクへ派遣された当初から、イラク戦争に疑問を抱いていたというラッペンハーゲンさん。彼は、〇四年七月、イラク戦争体験者らで設立された「戦争に反対するイラク退役軍人」の存在をインターネットで知り、関係者らのブログ(日記風サイト)に匿名で自らの体験をつづった。

 「周りの者に気づかれないようにしながら、イラク戦争がブッシュ政権によって仕組まれた戦争であること、それに気づきながら戦い続けることのむなしさや憤りを吐露した」と打ち明ける。

 イラク駐留中の彼は「多重人格者のように振る舞っていた」とも。ブログに戦争批判を書きながら、チームの兵士と一緒に基地外へ出動するときは、自身と仲間の命を失わないように毅然(きぜん)と戦い、義務と責任を果たしたという。

 が、ラッペンハーゲンさんは〇四年末に、イラク戦争を批判するブログの発信者であることが発覚。バグダッドの米軍情報部に発信内容を徹底的に調査された。

 「もし私が、自軍の作戦を漏らして部隊を危うくするような情報を流していたなら『軍紀を破った』として軍法会議にかけられていた。むろん、それだけはしなかった」と苦笑いを浮かべた。

 ■広島市民と交流

 一年間のイラク駐留を終えた彼は、〇五年二月にドイツの米軍基地へ原隊復帰。与えられた四週間の休暇を利用し、仲間と二人で日本を訪ねた。

 「母国でも、ヨーロッパでもない異質な日本に触れることで、心の癒やしを求めたかった。被爆地の広島を訪問することも主要な目的の一つだった」

 東京、京都、高山、広島…。四日間の広島滞在中、二人は原爆資料館や原爆死没者追悼平和祈念館を時間をかけて見学し、平和記念公園などを巡った。

 「初めて知る原爆の破壊力に言葉を失った。救護所で助けを求める被爆者の姿は、そのままイラクの被害者と重なった」

 ラッペンハーゲンさんらは、自国が行った大量虐殺に心を痛めた。しかし、多くの広島市民と言葉を交わし、訪問の目的を伝えると「われわれを批判せずに受け入れてくれた。そしてアメリカや日本の政治を変えて、より暴力の少ない平和な世界を築くために努力しようと話し合った。その体験が今も忘れられない」と懐かしそうに言った。

 ドイツに戻った彼は、ポーランドのアウシュビッツ収容所も訪ねた。ヒロシマとアウシュビッツ。違った二つの大量虐殺現場に触れたラッペンハーゲンさんは「人間は状況によって、どんなおぞましい行為もおかしてしまう」と、イラクでの自身の体験と重ね合わせ、あらためて深い自戒にとらわれたという。

 その訪問から二カ月後の五月末。ほぼ四年間勤務した陸軍を除隊。ドイツから母キャロルさんが待つコロラド州コロラドスプリングスへ帰還した。

 約一カ月間、母の元で心身をリフレッシュしたラッペンハーゲンさんは、被爆地の市民と約束したようにイラク戦争に反対する活動を始めた。

 七月にはテキサス州ダラスであった「平和のための退役軍人」全国年次大会へ参加。八月にはブッシュ大統領の私邸と牧場があるテキサス州クロフォードへ出向き、イラク戦争で息子を失った母親らが中心になり、牧場そばで続ける反戦キャンプに加わった。

 彼はあらゆる機会をとらえ、「軍事力ではイラクの現状は解決できない」と訴えた。と同時に、イラクの戦場で苦悩する多くのアメリカ兵の実態をも伝えた。

 「第二次世界大戦のときなら、アメリカ兵もナチズムやファシズムと戦っているとの正義感が持てただろう。でも、イラク戦争では目的が見つからない。そのことが兵士たちの心的外傷後ストレス障害(PTSD)の増加にもつながっている」と力説する。

 彼はまた、インターネットや電話で本国の家族や友達と簡単に連絡できる飛躍的な通信手段の発達が、かえって戦場の兵士にストレスを与えているとも指摘する。

 ■本国と意識に差

戦争に反対するイラク退役軍人
 2004年7月、米北東部ボストン市で開かれた「平和のための退役軍人」全国年次大会で、「イラク戦争に反対する現役兵や退役兵の広範な声を結集しよう」との趣旨で設立された。

 @イラクからの米軍の即時撤退A道路・上下水道・電気・病院などイラクの社会基盤の破壊や、米企業によるイラク人財産の収奪に対する賠償B帰還兵への心身両面での必要な健康対策の実施と年金などの十分な支給―の3点を目標に掲げる。

 発起人は8人。05年には100人余に増加。現在は本部のフィラデルフィア市をはじめ、41州と首都ワシントン、イラクを含む海外の米軍基地、カナダなどに400人を超すメンバーがいる。地域や高校などでイラク戦争の実態を伝えるとともに、戦争に反対する現役兵士を支援している。
 家族や友人は勇敢に戦っている「マッチョ」なアメリカ兵の姿を思うだけ。だが、兵士たちは恐怖や不安、悪夢にさいなまれていても「心配をさせては」と、それを口にできない。

 安穏な日々を過ごす本国の人たちと戦場との間にある大きなギャップ…。その溝は、兵士たちの帰還後も容易には埋まらない。

 ラッペンハーゲンさんは、〇五年九月から首都ワシントンにある退役軍人のための非政府組織(NGO)で働きながら、「戦争に反対するイラク退役軍人」の理事もボランティアで務める。

 彼は近くの路上に駐車した団体の中古バスを指さして言った。「車内にいるメンバーのほとんどが、何らかのPTSDを抱えている。私と同じように、彼らもイラク戦争を終わらせるまでは心の平安は得られないし、まっとうな社会復帰もできないと感じている」と。

 ラッペンハーゲンさんの父親は、ベトナム戦争の退役軍人。彼が十三歳のとき、米軍がベトナム戦争で使用した枯れ葉剤に関連したとみられるがんで病死したという。

 イラク戦争では、一九九一年の湾岸戦争時と同じように多くの劣化ウラン弾が使用された。

 「父親が、そして湾岸戦争の退役軍人がそうであったように、イラク戦争の退役軍人もPTSDだけでなく、体の心配までしなければならなくなるだろう」

 若い退役軍人らの願いや懸念をよそに、ブッシュ政権は一月、イラクへの二万人以上の米軍増派を決めた。


「イラクに派遣されたアメリカ兵の多くが戦争に疑問を抱いている。声を上げるのが難しいだけ」と話すギャレット・ラッペンハーゲンさん。後方には平和団体が掲げた「彼ら(兵士)を連れ戻せ」などの横断幕が見える(ワシントンD.C.) 所有するバスの車内で宿泊しながら活動を続ける「戦争に反対するイラク退役軍人」のメンバー。「イラク戦争を終わらせるまで心の平穏はない」と口々に言った(ワシントンD.C.)

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