2007.04.08
20.  ハリケーン・カトリーナ   続く「人災」報道 なお深いつめ跡



 民家の屋根から必死に助けを求める人たち。泥水に浮かぶ死体。市民と一緒に制服姿でスーパーマーケットから商品を略奪する警察官。不安と疲労にうちひしがれる大勢の避難民の中で聴いた黒人女性の美しいゴスペル・ソングの調べ…。

 新聞記者のブライアン・テベノーさん(34)は、極限状態に近い数日間の取材で目撃した光景が今も脳裏に焼きついて離れない。

 ■創業以来の困難

 アメリカ南部ルイジアナ州などを襲い、米史上でも最悪の自然災害の一つとなった二〇〇五年八月末のハリケーン「カトリーナ」。とりわけニューオーリンズ市は、数カ所の運河の堤防決壊で市域の八割が冠水、千人以上の死者を出すなど被害は甚大だった。

 地元紙「ザ・タイムズ・ピカユーン」の記者として現場で取材に当たったテベノーさん。本社三階編集局で会った彼は「カメラマンを含めわれわれスタッフは、悲惨な光景や無法行為、そんな中で出合った感動の出来事など目の前で起きているすべてを記録するつもりで無我夢中で働いた」と、昨日のことのように振り返った。そして、その取材は「今も続いている」と強調する。

 「ジャズの都」として知られるニューオーリンズ。当時、四十八万人いた全住民にレイ・ネーギン市長が避難命令を出したのはカトリーナが上陸する一日前の八月二十八日。だが、車のない貧しい黒人や多くのお年寄りらが避難できないまま取り残された。

 市中心部にあるフットボール競技場のルイジアナ・スーパードームには約二万六千人、コンベンションセンターには一万人以上の避難民が一時収容された。家を離れようとしない人も少なくなかった。警備に当たった警察官やマスコミ関係者を含む十万人近くが市内に残った。

 被災後は公共サービスが完全にまひ。略奪や発砲事件なども起きて市は緊急事態宣言を発令、市内への立ち入りを全面禁止した。スーパードームなどに避難した人たちも新たな避難を余儀なくされ、隣接のテキサス州ヒューストン市などへバスで移動した。

 「九月三日にはスーパードームにいた全員の避難が完了した。でも、軍などによる水や食糧補給の遅れで衰弱死したお年寄りがかなり出た。バスに乗り合わせる際の混乱の中で、家族がばらばらになり、違った避難場所へ連れて行かれた家族も相当数いた」とテベノーさんは言う。

 取材する側のピカユーン本社も、一八三七年の創業以来の困難に直面した。新聞発行のため、二十九日夜に社員の五分の一に当たる約二百人がピカユーン本社に泊まり込んだ。しかし、三十日朝には本社前の駐車場の水位が七十センチほどに上がったため、全員に避難命令が出された。テベノーさんら八人は配達用のトラックを使ったり、ボートを利用したりして取材を続け、記事をまとめた。

 が、その日の朝刊を含め三日間は新聞を発行できず、同社のウェブサイト(電子版新聞)のみに記事を掲載した。「仮に新聞を発行しても配達もできなければ、読者もいない。それでもわれわれは『起きている事実を外に伝えなければ』との一心だった。記者の使命感というより本能に突き動かされたのだと思う」と、テベノーさんは述懐する。

 首都ワシントンで生まれ、大学卒業後は二年間米東部の地方紙で働いた。一九九八年にピカユーンへ移籍。「ジャズや食文化など、この街がはぐくんできた独特の文化に引かれた」とニューオーリンズの新聞社に職を求めた動機を話す。

 「独身の私と違って、家族がいながら家を失ったり大きな打撃を受けた同僚も多い。二百七十人いた編集局員も一年ほどの間に約四十人がほかの地へ移っていった」

 関連資料を調べるために訪ねた資料部には、部長以下六人のスタッフがいる。ここでも四人が家を失い、後の二人も家屋に大きな被害を受けたと聞いた。

 テベノーさんは、災害から一年以上がたってなおニューオーリンズの人口は災害前の半分かそれ以下だと推測する。二十六万部あった発行部数も激減し、広告主も減った。唯一の救いは、ウェブサイトへの一日のアクセス数が当時三百万件を超え、今でも百五十万件と被災前の二倍を維持していることだ。

 ■政府 対策に遅れ

カトリーナ被害
 2005年8月23日、バハマ沖で発生した熱帯性低気圧がハリケーンに発達し、フロリダ半島に上陸。メキシコ湾を通過中に一時勢力は最大の強さを示すカテゴリー5となる。ルイジアナ州南部上陸時の29日朝にはカテゴリー3まで弱まっていたものの、メキシコ湾からの高波でポンチャートレーン湖からの水が運河に逆流。その水圧で数カ所の堤防が決壊し、ニューオーリンズ市の80%が冠水、米史上最悪の自然災害の一つとなった。

 このハリケーンでルイジアナ州やミシシッピ州などの住民約200万人が避難。日本の面積の6割強に当たる約23万3000平方キロにわたって影響が及んだ。ルイジアナ州政府の調べでは、05年10月までにカトリーナによる直接、間接の死者はルイジアナ州1464人、ミシシッピ州238人など計7州で1723人に達した。行方不明者は135人。

 ニューオーリンズ市域では、全壊を含め約20万軒の家屋やアパートが被害を受けた。復興の遅れに対して同市のレイ・ネーギン市長は、政府の膨大なイラク戦費を引き合いにしながら「ニューオーリンズを復興させようとする意志が感じられない」と政府への批判を強めている。
 ハリケーンの威力を表すカテゴリー3(最強は5)であれば十分に耐えるように設計されていたはずの堤防がなぜ決壊したのか。大災害に備えて設立された連邦緊急事態管理局(FEMA)の対応がなぜ遅れたのか。州や市行政の災害対策に問題はなかったのか…。

 事故後の調査報道からは「天災というよりも、人災という方がいいほどのずさんな行政が浮き彫りになった。堤防決壊の危険も前々から指摘されながら、連邦政府も地方政府も対応を先に延ばしてきた」と、テベノーさんは厳しく指摘する。

 テロとの戦いを最優先してきたブッシュ政権は、〇三年初頭に「国土安全保障省」を設立。その際にそれまで大統領直轄だった連邦緊急事態管理局を国土安全保障省の下に統合、縮小した。こうしたことが「事前・事後の対策の遅れにつながっている」として、ピカユーンもブッシュ政権への批判を強めた。

 現場に根差したピカユーンの一連の報道は、アメリカのジャーナリズム界で高い評価を得た。そして〇六年には米国内で最も権威のあるピュリツァー賞に輝いた。

 カトリーナ報道を契機に、これまで読者がいなかった周辺地域で部数が伸びているという。とはいえ、発行拠点である地元の都市人口が半減したのでは厳しい経営を迫られるのは明らかだろう。

 それでもテベノーさんらの士気は高い。「これまでは汚職など行政の腐敗に十分メスを入れてこなかった。でも、被災後は違う。復興のための連邦政府の金が途中で消えている。それを追及しなければ復興もままならない」。こう語るテベノーさんは「今日はその関連の記事をまとめている」と、真剣な表情で再びパソコンに向かった。

 ピカユーン本社を訪ねたその夜、一部を除き浸水を免れたジャズのメッカ、フレンチクオーターにあるバーボン通りを歩いた。確かにネオン輝くここには観光客が戻り、あちこちの店内からジャズやロックのにぎやかな音楽が通りに響く。有名なカキ料理店には長い行列ができていた。市経済の35%強を観光産業が占めるだけに、完全な復活が待たれるところだ。

 もっとも、市内ではこの一角だけが特別である。中心部から少し離れると、放置された空き家やアパート、閉じられたままの店が目立つ。特に黒人たちが多く住んでいた市東部の「第九区」と呼ばれる一帯は無残な姿を残したままである。

 流失した家跡に残った礎石、横転したままの車、曲がった標識、廃虚のようになった家々…。同じ九区でもミシシッピ川のほとりは地形がやや高くなっていた。

 ■豊かな国の実情

 家屋が残るその辺りを車で回っているとき、外で作業中のロドニー・デジョアさん(58)に出会った。妻のアンさん(54)とともに〇六年三月、ヒューストンなどの避難先から七カ月ぶりに自宅へ戻ったという。といっても、連邦緊急事態管理局から借りたトレーラーに仮住まいをしながら、床上浸水した家の補修に取り組んでいるのが実情である。

 「ここに戻ってようやくカビ取りなど本格的な家の修理ができるようになった。でも、洪水保険に入っていなかったので、家の補修に保険金が出ない。床のフローリングや壁の修理、電気工事など公的支援なしではやっていけない」とデジョアさんは語気を強めた。

 ニューオーリンズで生まれ育った。地元の州立大学を卒業。カトリーナ災害前は市の職員として二十三年間勤務したが、〇六年の初めに解雇を言い渡された。「市は六千人いた職員を半分の三千人に減らした。三十年勤めておれば年金を100%もらえるが、七年足りないので65%にすぎない。自分たちの生活様式を収入に合わせるしかない」と言う。

 電気も水もまだ仮設のまま。ガソリン代など物価は上がる一方。大きな冷蔵庫を使っていたときは月に一度の買い物で済んだが、トレーラーでは小さな冷蔵庫しか置けない。近くにスーパーマーケットもない。買い物に出かけるのも、ほかの用事と一緒にしてガソリン代を節約する。

 「この近所で戻ってきている家族はすぐ隣だけ。ほら、周辺は雑草だらけ。虫も多い。一八〇〇年代のアメリカ開拓時代にでも生きている気分だよ」

 避難者の中には、貧困のためだけでなく、堤防の補強が十分でないため「再び洪水に遭うのでは」と恐れて帰らない人々も多いという。

 「周囲を見ればまるで災害が昨日発生したようだ。これが世界で一番豊かだといわれている国の実情だ。黒人や貧しい者に対する政府の差別政策としか思えない」

 クラリネットを演奏し、ジャズが身に染みついているというデジョアさんは「自分たちはまだ幸運な方だ」と努めて明るく話した。そんな彼に四月初めに国際電話をかけてみた。希望通り家での生活が始められたことを願いながら…。

 「残念だけれど、あのときから何も変わっていない。連邦政府の助成金を扱うルイジアナ州復興局から援助金がいつまでたってもおりないので、補修も進まないのだ。いつ、どのぐらいの援助があるか、そのめどさえ立っていない」

 デジョアさんの話を聞きながら、「何重にもなった官僚機構の不正を暴かないと真の復興につながらない」と言ったテベノーさんの言葉が思い出された。


連邦政府の復興資金に関連する不正記事をまとめるブライアン・テベノーさん。「カトリーナ被災はジャーナリストとしてのわれわれを鍛えてくれた。地元紙の役割の大きさにもあらためて気づいた」(ニューオーリンズ市) 頭に旅行用スーツケースを載せ、避難先のルイジアナ・スーパードームに向かって水没した道路を歩く男性。水はその後、崩壊した堤防からポンチャートレーン湖へ引き始めた=2005年8月31日、ニューオーリンズ市(ザ・タイムズ・ピカユーン提供、撮影・ブレット・デューク同社カメラマン)
メキシコ湾に注ぐミシシッピ川河口のデルタにつくられたニューオーリンズ中心部の高層ビル群。夜のとばりがおりる大河は、湖のように穏やかな顔を見せていた(第9区南端、デジョアさん宅そばのミシシッピ川の土手から撮影)
にぎわいを取り戻したフレンチクオーターにあるバーボン通り。ネオン輝くこの一角だけは「ジャズの都」らしい華やかさがある(ニューオーリンズ市)
「金持ちは災害に遭ってもすぐ立ち直ることができるが、貧しい者はなかなか元の生活に戻れない」と話すロドニー・デジョアさん(ニューオーリンズ市) 残った礎石だけがかつて家々が立っていたことを示す第9区。流失を免れた家屋も荒れるがままに放置されている。近くには修復された堤防がある(ニューオーリンズ市)

| 中国新聞TOP | INDEX | BACK | NEXT |