2007.04.15
21.  カトリーナ避難民   帰郷かなわぬ貧困層



 「いつも使っている薬と聖書、一枚の着替えとわずかな食料、水、お金を持ってアパートから避難した。一日で戻るつもりがこんなに長くなってしまって…」。ハリケーン「カトリーナ」避難民のビバリー・ゴードンさん(61)は、テキサス州ヒューストン市の仮住まいのアパートで感慨をこめて言った。

 二〇〇五年八月二十九日にルイジアナ州などアメリカ南部を襲ったカトリーナ。ニューオーリンズでは、上陸前日の二十八日、市民全員に避難命令が出された。ビバリーさんは、夏休みで帰省中の大学生の孫ブランドンさん(21)と一緒に、市内中心部にあるフットボール競技場のルイジアナ・スーパードームへ身を寄せた。

 「車がないので自分たちで避難することができなかった。ドームに集まった二、三万人のだれもが、ハリケーンが過ぎれば家に戻れると楽観的に考えていたと思う」

 ビバリーさんらは、ビニールを敷いただけの床に横になり、眠れぬ一夜を過ごした。テレビもラジオもなく、ドームの外で何が起きているのか分からなかったという。

 運河の堤防が決壊し、ニューオーリンズ市域の大部分が洪水で浸水していると知ったのは三十日になってから。特にビバリーさんが住んでいた「第九区」など市東部の被害が大きいとのうわさが広がっていた。

 「家に戻れないショックに加え、暑さや湿気でドーム内の環境が悪く、いらいらが募っていった。軍による水や食料補給も遅れたので、衰弱死するお年寄りが出るほど状態は悪化した」とビバリーさんは振り返る。

 ■温かい受け入れ

 家屋やアパートの流失と冠水、治安の悪化、交通網の寸断…。ニューオーリンズの都市機能は完全にまひ。市長は外から市内への立ち入りを禁止するとともに、各州や連邦政府の協力を得て、スーパードームなどへ避難した市民の州内外への再度の避難命令を出した。

 「私がヒューストンへ向かうバスに乗せられたのは、避難から六日目の九月二日の朝。六十歳以上のシニア市民や子ども連れの家族が先に避難した。混乱の中でブランドンを見失い、行き先を告げることもできなかった」

 高速道を西へ走ること約五百六十キロ。ヒューストン市内の多目的競技場のアストロドームへ到着したのはその日の午後六時だった。

 「体はよごれ、心も体もくたくた。でも、アストロドームでの受け入れ態勢は隣人をいたわるような心配りがあった。ヒューストン市と市民ボランティアのおかげで、シャワーを浴び、服の着替えをもらい、何日ぶりかで温かい夕食を口にした」。ビバリーさんは見知らぬ地で受けた親切を今も鮮明に思い出す。

 しかも、アストロドームでほかの避難民と一緒に過ごしたのはわずか一晩。翌三日には、新築の民間のアパートへ移り住んだ。高齢者の避難民は優先的に住居があてがわれた。市があっせんし、連邦緊急事態管理局(FEMA)が費用を負担した。

 「ここがそのアパート。2LDKで広さは十分。家財など何もなかったけれど、一時金二千ドル(約二十四万円)と食料割引切符などが支給されて本当にありがたかった。でも、ほっとしたら急に家族のことや、これからどうやっていけばいいのかと心配になって…」

 ビバリーさんは一九六七年に結婚し、一男一女に恵まれた。が、ベトナム戦争帰還後にアルコール依存症になった夫とは六年で離婚。ルイジアナ州政府職員として働きながら、二人の子どもを育て上げた。

 ところが、シングルマザーだった娘は、四歳のブランドンさんと一歳の孫娘ブランディさんを残し、八九年にニューオーリンズ市内で何者かに殺害された。いまだに犯人は逮捕されぬままである。ビバリーさんは孫を引き取って育てた。

 ■再会まで1ヵ月

 〇四年五月に高校を卒業したブランドンさんは同年九月、テネシー州のメンフィス芸術大学へ入学。年間二万ドル(約二百四十万円)の授業料と寄宿舎代を、奨学金と教育ローンで支払いながら「音楽と映像を融合させた」映画監督の道を目指し勉強中だ。

 そんな彼が祖母の避難先も分からぬままに、スーパードームからバスでたどりついた先はテキサス州ダラス市。知人の家などに寄宿し、祖母の居場所を探した。判明したのは十月半ば。カトリーナ避難民の滞在先を知らせるインターネットサイトを通じてだった。ブランドンさんは、すぐにヒューストンの祖母の元へ移り住んだ。

 ニューオーリンズで別のアパートに住んでいた孫娘のブランディさん(19)は、八月十日に長女を出産したばかりだった。家族三人は「第九区」にあるホテルに避難したものの水が二階まで迫り、警察官に助け出されてそのまま州都のバトンルージュ市へ移動。兄が同じインターネットサイトで妹家族の無事を確認できたのは十月下旬だった。

 「孫やきょうだい、親類のだれもが無事だったことを知ったのは慰め。でも、人の親切にいつまでもすがってはいられない」とビバリーさんは言う。

 しかし、その思いとは裏腹に、厳しい現実があった。十二月にはブランドンさんと一緒に、公的支援を受けて借りた小型トラックで、ニューオーリンズの元のアパートへ帰ってみた。だれも住まなくなったアパート。二階にあった部屋は一メートル余りの高さまですべて水につかり、かびが一面を覆っていた。窓は破られ、宝石や衣類、テレビやパソコンも取られていた。思い出の残る一部の家具と記念写真だけを持ち出した。

 カトリーナ襲来後、初めて目にした故郷の被災状況。あまりの被害の大きさに二人は、ニューオーリンズでの生活再建への希望が薄れていくのを感じていた。

 「これまでに何人もの知り合いがニューオーリンズで仕事を見つけて帰って行った。でも、家が見つからなかったり、給料の三分の二を家賃につぎ込むような現実に嫌気がさしてヒューストンに戻ってきた人も多い」とビバリーさん。

 〇六年秋に発表したテキサス州の調査によると、州内に滞在するカトリーナ避難民は二十五万一千人。うち十一万一千人がヒューストンに住む。避難民の81%が黒人で、41%は世帯月収が五百ドル(約六万円)以下。59%が失業中で、54%の世帯に少なくとも一人の子どもがいる。また、多くの避難民が「深刻な健康障害を抱えている」としている。

 ビバリーさんに当てはまらないのは、子どもを抱えているという項目のみだ。職を求めても「この年ではなかなか見つからない」とこぼす。九一年に交通事故で脊椎(せきつい)を痛めた。ここ数年は糖尿病や関節痛で病院通いが絶えない。

 健康保険はないが、公的病院で診療や投薬をしてもらっているという。「医療費は、そのとき払えるだけ払うという寛大な措置を取ってもらっている」と話す。

 ■復学準備整わず

ヒューストン市民意識調査
 ヒューストン市にあるライス大学のスティーブン・クリンバーグ教授(社会学)らは2007年2月、市内と近郊に住む大人656人を無作為に選び、カトリーナ避難民のヒューストン滞在についてどう思うかを電話で尋ねた。その結果、65%が「良くない」と答え、11%の「良いことだ」を大きく引き離した。06年2月の調査では「良いことだ」と答えた人は36%あり、1年間でヒューストン市民の避難民への意識が悪化したことがうかがえる。

 原因としては「犯罪の増加」「市の社会的サービスの低下」「税負担」を挙げている。大きな自然災害に遭った「隣人」である避難民に、衣食住の提供や医療サービスを行うことに誇りを抱いてきたヒューストン市民だが、「今では重荷に感じつつある」とクリンバーグ教授らは分析する。

 しかし、最初から避難民の対応に積極的だった同市のビル・ホワイト市長は「われわれは隣人が自分の足で立てるように手助けしてきた。その姿勢は今後も変わらない」としている。
 ブランドンさんは、カトリーナ被災のために一年間休学した。「早く復学したいけれど、今はまだ奨学金の申請など授業料を払うための準備が整っていない」と残念そうに言った。ビバリーさんは才能のある孫を大学に復学させたいとの思いを募らせる。

 二人が入居しているアパートの世帯数は約百世帯。そのほとんどがカトリーナ避難民である。家に一人残っていて洪水に遭い、軍のヘリコプターに救出されたという元ニューオーリンズ市役所職員のルイス・ハリスさん(55)は「仮に市職員として復職できても、家を失ったので住むところがない。帰りたくても帰れない」と強い南部なまりで訴えた。

 被災直後のヒューストンの避難者数は十五万人を超えた。今もとどまる人の中で、新天地で職を見つけ、家賃を払ったり家族を養えるだけの収入がある人たちは「ひと握りにすぎない」と市の担当者は指摘する。

 「隣人」として受け入れてくれたヒューストン市民の間には「避難民による犯罪が増えた」「教育、医療、住宅など市民の税負担がかさんでいる」と、いつまでも避難民を支援することに批判の声が高まりつつあるのも事実だ。

 そんな声をビバリーさんらも敏感に受け止めている。「でも『いつ帰るのか』と問われても、返事ができない。ニューオーリンズは恋しいけれど、帰れば現実はもっと厳しい。カリフォルニアから移ってきた長男の助けで、なんとかここで生活再建ができれば…」

 ビバリーさんと同じように、帰りたくても帰れない避難民のなんと多いことか。公的な財政支援や市民の協力がなければ、すぐにも路頭に迷いかねないのが実情だ。カトリーナ被災は、あらためてアメリカ社会の人種や階層問題を浮き彫りにしている。


仮住まいのアパートで、キーボードを演奏するブランドン・ゴードンさん。そばから見つめる祖母のビバリーさんは「被災さえなければ大学での勉強を続けていられたのに」と孫の将来を気づかった(ヒューストン市) 聖書を手にアパート前で被災時の体験を話すルイス・ハリスさん。「妻と3男3女がいるが、いまだに二男と二女としか会えていない」(ヒューストン市)

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