2007.05.13
25.  不法移民   仕事求めて越境 思うは家族・祖国



 高さ約五メートル、幅十五センチほどの鉄骨が、ほぼ等間隔で太平洋に向かって並ぶ。米国南西端の国境を示す鉄骨の向こうは、メキシコの町ティファナである。すき間から望む砂浜には、のんびりと週末を過ごす家族連れら多くのメキシコ人の姿があった。

 ■鉄骨越しの再会

 砂に足を取られながら海辺の方に歩く。すると一人の女性が、鉄骨を挟んでメキシコ側の人たちと話し込んでいる光景に出会った。時折、笑い声が耳に届いた。恐らくアメリカとメキシコに別れて暮らす家族同士なのだろう。声を掛けてみると、やはりそうだった。ブランカ・パロミノさん(32)の家族と、夫の父親のホラシオさん(65)、母親のテレサさん(63)が二年ぶりに再会を果たしたのだという。

 夫の両親は首都のメキシコ市からバスを乗り継いで四十六時間かけて、前日にティファナに到着。同市に住むめいのシリア・エスコバーさん宅に宿泊していた。ブランカさんと夫のクワンルイスさん(37)は、息子のイサイ君(15)と娘のシャーロンさん(13)を連れて、この日朝、カリフォルニア州ロサンゼルスに近いサンタアナ市の自宅を車で出発。二時間近くかけて国境にたどりついた。

 積もる思いをひとしきり語り合った後は、互いに持ち寄った料理を分け合っての昼食。その後、クワンルイスさんは息子と一緒に、元トラック運転手の父親のために買った車がメキシコへ持ち出せるように書類手続きに出かけたという。

 メキシコ市の南約六十キロの町で生まれ育ったブランカさんは一九八九年、兄姉と一緒に仕事を求めて不法に国境を越えてカリフォルニアへ。当時十五歳だった。彼女より一カ月遅れで越境したクワンルイスさんとやがて知り合い、九〇年に結婚。夫は修理業を営む会社に勤め、彼女も二人の子育てをしながらホテルのハウスキーパーなどさまざまな仕事をこなしてきた。四年前から幼稚園の教員助手として働く。

 「私たちはトラブルに巻き込まれないようにまじめに働き、税金も納めてきた。この国で生まれた子どもにはアメリカの市民権がある。でも、私たちは労働許可証があるだけ。これまで何度も市民権を申請したけれど認められなかった。だから夫も私もこちらに来て以来、一度もメキシコに帰っていない」

 いったん出国すると、再入国できる保証がないからだ。ブランカさんは二〇〇四年、十五年ぶりに自身の母親と再会した。娘の家に四カ月滞在後、母は病気が悪化した父親の看病のために帰郷。が、父は間もなく他界した。ブランカさんは十五歳で父と別れたまま、一度も会えずじまいだった。母は父の死後、娘の家族と再び住みたいと願うが、アメリカへの入国許可が下りないという。

 「久しぶりに息子さんのご家族に会えてよかったですね」。スペイン語の通訳をブランカさんにお願いして両親に声を掛けると、「元気な姿を見るのはうれしいけれど、悲しくもあるよ。こいつが邪魔をして思い切りみんなを抱けないからね」と、父親のホラシオさんは鉄骨を手でたたきながら残念そうに言った。

 ホラシオさん夫妻はめいの家に二週間滞在。この間に土・日曜の四日間、息子の一家とこの砂浜で過ごす予定だ。「二年先にまたここを訪ねるだけの体力が残っているかどうか分からない」とテレサさん。その言葉にブランカさんは「一刻も早くアメリカの市民権が取れるように、私たちも毎日神に祈っているの。取得できればいつでも会いにいけるから」と義母を安心させるように笑顔で言った。

 希望がかなうことを願って一人一人と握手し、一家と別れた私は、国境から北へ約十六キロ離れたナショナルシティー市へ向かった。同市ではこの日午後、合法・非合法を問わずすべての市民の人権を擁護するとの市宣言が発表されると聞いていたからだ。

 ■道路を挟み集会

米の不法移民者
 米国には現在約1200万人の不法滞在者がいるといわれている。このうち約400万人が合法的に入国後、滞在期限が切れた人たち。約800万人が必要な入国書類のないまま密入国した人たちである。人数的には中南米からの不法移民者が多く、なかでも隣国メキシコからの出稼ぎ労働者が最も多いとされている。

 メキシコ人の移民は、特に1970年代以降に急増。現在、米国内にはこの国で生まれた市民や不法入国者を含め2000万人以上のメキシコ系住民がいるとみられている。全米でのラティーノ全体の人口は約4300万人とされており、ほぼ2人に1人がメキシコ系住民ということになる。

 メキシコ政府人口統計局によると、2000年から05年にかけての米国への移民者数は毎年平均約57万7000人。06年は約55万9000人だった。このうち、01年―05年の不法入国者は78%にのぼり、その数は90年代よりも増加しているとしている。米国では不法移民の問題が大きな政治問題になっている。
 車を駐車して市役所前に着くと、中南米出身のラティーノを中心に四百人余の支持者たちがメキシコ国旗などを掲げて集会を開いていた。一方、道路反対側の歩道には、不法移民の取り締まり強化や追放を訴える市民団体「ミニットマン」のメンバーら約百五十人が気勢を上げている。道路中央には、約八十人の警察官が警備に立ち、辺りにはものものしい雰囲気が漂っていた。

 サンディエゴ市に隣接するナショナルシティーの人口は約六万三千人。うち中南米出身のラティーノが約60%を占める。フィリピンを中心にアジア系市民も約20%。ニック・インズンダ市長は、メキシコ系二世である。

 市長名で出された宣言文には、同市が「世界中で生まれた移民によって構成されている」とし、移民を手助けする教会や個人、非営利団体などを「重罪」とする連邦議会の動きを非難。移民をテロリストと結びつける短絡的な対応をも拒否すると明言。ナショナルシティー在住のすべての市民の人権は守られねばならないとしたうえで、同市を「移民者のための保護区」にすると宣言する。

 支持者の一人が英語とスペイン語で宣言文を読み上げると、参加者の間から「ビバ(万歳)ナショナルシティー」の大きな歓声が何度も上がった。

 宣言の文言に「不法」「合法」の移民の区別をしていないのは「犯罪行為をして法を犯さない限り、それを問題にするよりも、一人の人間として接し、受け入れようという意味だ」と、後に会った地元の警察幹部から教えられた。ここでは警察官の多くもラティーノである。集会はその後のデモ行進も含めて二時間近く続いたが、反対派との衝突はなかった。

 翌朝、私は不法移民者のための野外日曜礼拝に出かけた。サンディエゴ市街から北東へ車で約三十分。宅地開発が進む舗装道路からはずれ、でこぼこ道を下ること数分。車を止めてさらに五十メートルほど森に続く道を歩いて下りると、森の一部を切り開いてつくった礼拝場があった。合わせて百人ほどが座れる木製のベンチが並ぶ。前方にはキリスト像をまつった小さな祭壇があった。

 午前十時前。周辺の丘陵地から三々五々集まった人たちは約百人。若い男性が多い中で、子どもを連れた数組の家族や年配者の姿も。サンディエゴからやって来た学生や近くの教会関係者ら支援者も約三十人が加わる。

 こずえを飛び交う鳥たちのさえずり。かすかな葉音。そんな中、ローマカトリック教会の司祭がスペイン語で説教を始めた。賛美歌もここでは楽器による伴奏はない。清らかな歌声が心にしみた。

 四十分ほどで礼拝が終わると、ボランティアが準備した温かい食事の時間だ。鶏肉、野菜、魚のフライ、ピラフにパン、ケーキ、果物、数種の飲み物…。過酷な環境で生きる不法移民者にとって、一番心が安らぐときなのだろう。言葉を交わす彼らの顔からも自然と笑みがこぼれた。

 その一人、メキシコ南部のオアハカ市から九六年に仕事を求めてこの地にやって来たというバート・ロハスさん(30)。今では日常生活に不自由しない英会話力を身につけた彼は「アメリカに来た当時と比べると、英語も分かるし、たくさんのアメリカ人とも知り合いができたので仕事がしやすくなった」と言う。

 ■「我慢するしか」

 ロハスさんの仕事は周辺にある高級住宅街を「ドアからドアへ」と訪ね歩き、庭の手入れや洗車などの家事手伝いをして報酬を得ることである。実直で働き者の彼の名は、口コミで伝わり、指名が多いのだ。が、それでも一カ月の収入は五百ドル(約六万円)程度。不法移民であるために足元を見られ、安い報酬しか得られない。「しんどいのは事実。でも、実家に送金するには我慢するしかない」とロハスさん。

 実家はパイナップルやバナナ、豆類などを栽培する農家だが、現金収入は少ないという。両親と兄四人、姉一人がいるが、アメリカにいるのは末っ子のロハスさんのみ。それだけにおのずと彼への期待が大きくなる。

 一時間ほどで食事を終えると、必要な服や一ガロン(約四リットル)入りの水などをもらって、彼らはまたそれぞれのバラックに戻る。ロハスさんの案内で、周辺に住む人たちの住居を訪ねた。周囲にトマト畑が広がる平たんな道を約二十分歩いた後は、幅一メートル余の急な坂道を百メートル近く上った。途中で遭遇した猛毒を持つガラガラヘビに足がすくむ。低木の間に点在する青いビニールのテント。近づくと、テントの中には汚れたマットが敷かれ、フライパンなど簡単な台所用品も置かれている。

 谷を一つ越えたその向こうには「百万ドル(約一億二千万)はする」という新築の家々が立ち並ぶ。その差のあまりの大きさに言葉すらない。

 冬場は一〇度以下になり、夏場は四〇度を超えることもしばしば。それでも、ここにいれば「当局の追及やミニットマンによる迫害から逃れられ、お金も節約できる」とロハスさんは明るい口調で言った。

 衛生状態は悪く、医師もいない。メキシコで生活できれば、だれも好んでこれほど厳しい環境に身を置いて出稼ぎに来るものはいないだろう。

 「将来の希望は?」。そう尋ねるとロハスさんは、しばらく考え込んで言った。「もう数年アメリカで働いたら帰国して、いい嫁さんを見つけて結婚したい」

 その日が早く実現することを願わずにはおれなかった。


米南西端のメキシコ国境に立つ鉄骨のフェンスを挟んで、2年ぶりに再会した左からシャーロンさん、ブランカさん、ホラシオさん、テレサさんのパロミノ一家。いすに腰をかけているのはめいのシリア・エスコバーさん。「両親と一緒におじいちゃん、おばあちゃんの故郷を訪ねてみたい」とシャーロンさんは願う(米国境フィールド州立公園)
大きな木の枝に覆われた野外礼拝場で、ローマカトリックの司祭を迎え日曜朝の礼拝に集う不法入国者のラティーノたち。教会関係者ら多くのアメリカ市民が、ボランティアで彼らを支えている(サンディエゴ郊外) 1994年10月に建設されたメキシコ国境を分かつ鉄骨のフェンス。米国境警備隊の監視の目を盗み泳いで越境を試みた人の中には水死した者もいるという(国境フィールド州立公園)
合法・非合法を問わず「移民者のための保護区」宣言をしたナショナルシティーの市長決断に対し、市役所前の道路両側に分かれ、互いに気勢を上げる反対派(左側)と支持派の住民たち(ナショナルシティー市)
低木が茂る丘陵地の頂上付近で野宿生活をするバート・ロハスさん(左)らメキシコからの若い移民労働者。3人の向こうにはビニールで覆ったバラックが見える。谷を越えた遠くの高台には新しく建てられた高級住宅街が並ぶ(サンディエゴ郊外)

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