2007.06.24
31.  ピースカフェ   民族超え対話 心つなぐ



 レストラン経営者でアーティストのアンディ・シャラールさん(52)は、日曜日も早くから店に姿を見せていた。首都ワシントンの大統領官邸から北へ約三キロ。書店、喫茶、レストラン、多目的室を備えた複合店だ。奥の多目的室では、朝食を終えた約五十人の市民が、イスラエル・パレスチナ問題とアメリカのかかわりについて意見を交わしていた。

 その部屋の壁を飾るセピア色のコラージュが目を引く。「PEACE」(平和)の大きな文字。そばには大英帝国からインドを独立に導いた非暴力主義者のマハトマ・ガンジーや、米公民権運動を指導したマーチン・ルーサー・キング牧師らの写真が並ぶ。植民地支配や人種差別と闘ってきた精神的指導者たちの存在が、創作したシャラールさんのメッセージを強く伝えていた。

 「ガンジー翁らに見つめられると、たとえ意見が違っても『暴力で解決すべきだ』という人はいないからね」。レストランのテーブル席についた彼は、そう言って快活に笑った。一九三センチの長身。一見、いかつそうに見えるが、ユーモアを交えた話術が人をなごませる。

 「今朝の集いは『ピースカフェ』と名づけて、二〇〇〇年から毎月最低一回は開いてきた。参加者の多くは、アラブ系とユダヤ系のアメリカ人だ。人種や民族が異なると、心からの交わりは意外と少ない。その壁を取り除き、率直な対話ができる場を提供してきた」

 水がわいているところには動物たちが集まるという。人間も同じ動物。レストランという「食べる場」に人々が集い、気楽に文学や政治について語り合えないか。詩の朗読や音楽、絵画などの芸術を通して、社会の変革につなげていくことはできないだろうか。そのために役立つ書籍も置いておこう…。〇五年九月、そんな発想からユニークな店が誕生した。

 「レストランとしてはワシントン市内で四店目。でも、四百五十人余りを収容できる大きさはここが初めて。ピースカフェも、オープン後はこの店で開くようになった」と言う。

 メニューはハンバーグやチキンのグリルなど一般的なアメリカ料理だ。値段は五ドルから十八ドル(約六百―二千百六十円)と手ごろである。「しかし、いくら値段が手ごろでも、味が悪くては客は来てくれない。神経は使っているよ」とシャラールさん。

 ■イラクに帰らず

 イラクのバグダッド生まれ。一九六六年、十一歳のときにアラブ連盟の駐米大使に就任した父親(84)に伴い、母親(80)ときょうだい二人とともにワシントンへ。三年間大使を務めた父は、六八年のクーデターでバース党が政権を握り、サダム・フセインが台頭を始めたイラクへは帰国せず、アメリカに政治亡命を求めた。

 「父はイスラム教スンニ派で、サダム・フセインと同じ宗派だったけれど、権力闘争には巻き込まれたくなかった。サダムにとって問題なのは、彼に忠誠を尽くすかどうかであって、スンニ派、シーア派の違いはそれほど問題ではなかった」。シャラールさんはこう説明する。

 彼自身はワシントンの大学を卒業後、マサチューセッツ州のハーバード大学で免疫学を専攻。七九年に修士号を取得し、その後三年間、メリーランド州の国立衛生研究所(NIH)で白血病の研究助手を務めた。しかし、ビジネスや政治への関心が高まり、八二年に方向転換。レストランのウエーターや店長として働きながら、レストラン経営のコツを身につけていった。

 八三年に市民権を取得した彼は「アメリカ市民としての自覚が高まった」と述懐する。どのような国であってほしいのか。そのためにどのような政治的変革が必要なのか。一人の市民として真剣に考えるようになった。「直接のきっかけは、当時のロナルド・レーガン政権下で軍事費が突出し、スターウォーズ計画と呼ばれた戦略防衛構想(SDI)が発表されたことだ。このままソ連と核軍拡競争を続けていけば、やがて人類は核戦争に直面し、生き延びることができないと思った」

 イラン出身でシーア派のマージャンさん(46)と八五年に結婚。二年後にワシントンで最初のレストランをオープンしたとき、彼はすでに政治活動にも深くかかわっていた。「民主主義は、市民一人一人が政治に参加することによって機能する。人任せにしていると『自由や民主主義のために』『テロと戦うために』と言いながら、いつの間にかファシズム国家になっていないとも限らない」

 ■行動が変化導く

 シャラールさんは、〇一年一月のブッシュ政権誕生後、チェイニー副大統領らネオコン(新保守主義者)が国の政治を「ハイジャック」したとみる。特に同年九月の米中枢同時テロ事件後は、議会もメディアも市民も冷静さを失い、大多数が政権のサポート役に回ってしまったとも。

 「9・11以後、アラブ系アメリカ人とイスラム教徒は、治安当局から犯罪者のように扱われてきた。アラブ系住民も、自分たちだけのコミュニティーを形成して、他者とあまり交わらない。このため互いに一層、偏見や恐怖心を抱くようになる」。シャラールさんはこう言ってさらに続けた。「でも、盗聴や裁判所の令状なしの逮捕などアラブ系住民への人権侵害は、結局、すべての市民の人権侵害につながっている」と。

 例えば、米連邦捜査局(FBI)など治安当局が、人種や民族に関係なく、イラク戦争に反対するグループや個人の情報を収集していた事例は枚挙にいとまがない。「表現の自由」を侵害するこうした権力の不正に対して、市民が批判の声を上げるのは「民主主義社会に生きる者の責務だ」と彼は言う。

 さらに、批判するだけでなく行動をも求める。「異なる文化や宗教を持つ市民が互いに交わり、知り合うことが偏見や差別をなくし、安全な社会を築いていくうえで欠かせない。そのために何らかの行動を起こすことが、本当にこの国を変えていくことになる」と力説する。

 意見の相違や利害の不一致、習慣の違いは最後まで残るかもしれない。それでも「顔と顔を見合わせて話し合えば、人間として相違よりも共通点の方が多く見いだせるはず。多様な価値にも気づくだろう」。確信に満ちたその声は自ら実践し、「ホスト役」としてこうした場を提供してきた体験からくるのだろう。

 ■「橋渡し」続ける

ピースカフェ
 首都ワシントン在住のユダヤ系舞台美術ディレクター、作家、そしてアンディ・シャラールさんの3人が「アラブ系市民とユダヤ系市民の対話を促進し、理解を深め合おう」と、2000年に設立。1カ月最低1回の集いを持つことで始めたが、9・11テロ事件やイラク戦争など大きな情勢変化の中で、月に数回集うことも多く、これまでに200回以上開いてきた。最初の5年余りは学校の教室やユダヤ人集会所などを利用してきた。

 「平和への道は平和的手段によってのみ達成できる」と非暴力を唱え、関係国の政治指導者らにアピール。またメンバーの一部は「平和の種」をまくため、中東諸国からアラブ系の若者とイスラエルの若者を毎年夏にアメリカに招く交流事業にも参加している。メンバーは現在930人。
 ピースカフェに出席していたユダヤ系市民で、元薬剤師のビクター・ミラーさん(62)に、集いの後で話を聞くことができた。五年前から参加しているという彼は、それまでアラブ系市民と意見を交わすことなど一度もなかったという。

 「この集いに出席して初めて、イスラエル軍によって殺されたパレスチナ人の遺族の証言を聞くことができた。非常に心が痛んだ。『アラブ諸国はイスラエルを崩壊させようとしている』。単純にそう信じているユダヤ系住民のコミュニティーからは、パレスチナや周辺諸国との共存の道は見えてこない」

 パレスチナとレバノンのイスラム過激派組織であるハマスやヒズボラの攻撃によって犠牲になるイスラエル人も少なくない。ミラーさんの友人の弟も、ヒズボラのロケット弾に被弾し、〇六年八月に亡くなった。「互いに悲しみを共有できる場がここにはある。それができるから、無意味な暴力の連鎖を断ち切るために、共に力を合わせることもできる」とミラーさんは説く。

 イラクでは毎日のように、多数のイラク人の犠牲や、アメリカ兵の戦死が続く。バグダッドなどに住むシャラールさんの親類の多くは、ヨルダンや英国、スウェーデンへ脱出した。今なおバグダッドに残るいとこと電話で話すと「生命を危険にさらされる恐怖や、やり場のない彼らの憤りがひしひしと伝わってくる」とシャラールさんは表情を曇らせる。

 「軍事大国」のアメリカは、明らかに誤った軌道を歩んでいるという。「たとえて言うなら学校で弱い者いじめをするガキ大将のようなもの。いつまでもこんな行為が許されるはずがない」

 しかし、彼は自らが選び取った国に絶望しているわけではない。「アメリカには培ってきた民主主義の深い土壌がある。間違いを修正していく良心と行動力が市民にあれば、正しい軌道に戻すことは可能だ」

 シャラールさんはアメリカの民主主義に大きな期待を寄せる。そしてビジネス・芸術・社会活動を通じて「モザイク社会」に分断されている人々を結びつける「橋渡し役」を果たしていくつもりだ。


店内の多目的室で、「ピースカフェ」の集い終了後に参加者と話し合うアンディ・シャラールさん(中)。平和と非暴力、社会的正義をテーマに彼が創作した壁一面のコラージュが訪れる人たちに強い印象を与えている(ワシントンD.C.) 米国の著名な歴史学者ハワード・ジン氏のイラク戦争をテーマにした講演に耳を傾ける人たち。店内は450人以上の聴衆で埋まった(ワシントンD・C・)
ビクター・ミラーさん

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