2007.07.01
32.  フォークシンガー   反戦訴え 国の良心問う



 ニューヨーク市マンハッタン島のセントラルパークに近いアパートに、ピーター・ヤローさん(69)を訪ねた。世界的に知られるフォークグループ「ピーター・ポール&マリー」のメンバーの一人である。

 「ウエルカム、ブラザー」。うち解けた笑顔で迎えてくれた彼は、台所に立つと朝食を準備。コーヒーを入れたり、グレープフルーツジュースを作ったりしながら問わず語りに語り始めた。

 「ポールとマリーと私がつくり出してきた音楽は、ロマンスなどを歌った叙情的な作品のほかに、社会的不公正の変革や平和を願うメッセージ性の強いものが多い。トリオを結成した一九六一年、アメリカにはすべての人々にとっての自由や正義はなかった」

 彼はエイブラハム・リンカーン大統領の奴隷解放宣言(一八六三年)に触れ、「百年がたってなお南部では白人と黒人のレストランの使用を区別するなど黒人への隔離政策が続いていた」と当時を振り返る。

 白人優越主義秘密結社のクー・クラックス・クラン(KKK)などによって、ほぼ三日に一度は黒人に対するリンチ事件が起きていた時代。「自由や民主主義を国家理念にしながら、アメリカはなお超偽善的な国だった」

 ■公民権運動に力

 一九五〇年代にアメリカ社会に吹き荒れた反共産主義のマッカーシズム。ニューヨーク市で生まれ、「正義感が強かった」という教育者の母親に育てられたヤローさんは、息苦しい空気を感じながら多感な思春期を過ごした。六〇年代に入り、黒人差別に反対する公民権運動が胎動すると、ヤローさんら三人は抵抗なく運動に加わったという。

 故マーチン・ルーサー・キング牧師が率いた六三年の「ワシントン大行進」。キング牧師は「私には夢がある」と未来への希望を語り、二十代半ばのピーター・ポール&マリーは「天使のハンマー」などを歌って、人種の壁を越え参加者たちの心を一つにつないだ。

 ヤローさんらは公民権運動の一方で、拡大するベトナム戦争に反対する運動にも積極的に参加。反対世論を盛り上げるためのコンサートなどを各地で開いた。戦争政策を進める政府の方針に反対するその姿勢は、当時も今も変わらない。

 しかし、ヤローさんはベトナム戦争のころよりも、二〇〇一年の9・11米中枢同時テロ後のアメリカ社会の方が「憲法に照らしてはるかに後退した状態に陥っている」と強い懸念を示す。

 彼はコーヒーのお代わりを私に勧めながら続けた。「今は政府の方針に反対すると『非愛国者』とか『テロリストの味方』だといって非難される。反対の声は主流メディアの片隅に追いやられ、ラジオをかけてもベトナム戦争中には聴けたボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、ピーター・ポール&マリーのような反戦ソングを耳にする機会がなくなった」

 9・11テロ事件によって引き起こされたアメリカ国民の不安と、超大国としての傷ついた誇り、そして報復心。ヤローさんは「国民が抱くこうした心情をブッシュ政権が最大限に利用して、イラクへの先制攻撃を行った」と指摘する。

 ベトナム戦争では、二百万人以上のベトナム人が犠牲になった。その多くが非戦闘員である。アメリカ兵も約五万人が戦死。イラク戦争では、これまでに数十万人ともいわれる子どもや女性らイラク人非戦闘員の命が奪われ、アメリカ兵の戦死者も増える一方だ。アフガニスタンでも多くの非戦闘員が死傷している。

 なぜアメリカは戦争を繰り返すのか? その問いにヤローさんはこう答える。「この国に必要なのは、自らの良心を点検する文化だ。自分たちがほかの国で行ったことについて、何が正しくて何が間違っていたのか、その反省を徹底的にしないために、同じ過ちを繰り返してしまうんだよ」

 ドイツでは第二次世界大戦後、ユダヤ人へのホロコースト(大量虐殺)などヒットラー政権下で犯したドイツ人の過ちを厳しく検証し、被害を与えた隣国に対し政府として謝罪と償いをした。しかし、アメリカは第二次世界大戦末期に、広島・長崎へ原爆を投下し、無差別殺りくをしたことも、ベトナム戦争で大量の枯れ葉剤を使用し、人体や環境に甚大な被害を与えたことに対しても「過ちを認め、謝罪していない」と言う。

 ■枯れ葉剤の傷跡

 ヤローさんは〇五年と〇六年にベトナムを訪問した。ベトナム帰還兵らでつくる市民団体「和解と発展のための基金」のメンバーと一緒だった。〇五年の訪問の際、彼はハノイ市にある「友情村」という名の施設を訪ね、初めて枯れ葉剤による深刻な後遺症の現実に接した。

 「入所者百二十人のうち、約四十人が枯れ葉剤による後遺症のため先天性障害を持って生まれた子どもたちだった。祖父母の代の影響が続く三世の子どもたちを前に、私はアメリカ人として『アイ・アム・ソーリー(ご免なさい)』と心でつぶやくしかなかった」

 ヤローさんが受けた衝撃は大きかった。「この実態をアメリカ人に伝えなければ…。そして和解を求めて活動する少数のベトナム帰還兵らの姿も同時に紹介しよう」。彼はドキュメンタリー映画の制作を決意し、昨年四月の訪問時に多くの時間を撮影に費やした。

 過去の記録フィルムなどを加え、三十分と一時間にそれぞれ編集した作品「否認の遺産」は、今夏には完成予定だ。公共テレビでの放映の可能性を求めるほか、同基金のメンバーが全米各地で自主上映を計画しているという。

 ヤローさんはここまで話すと、ベトナムの話題から、〇六年八月五日(現地時間)の広島原爆の日に合わせてニューヨークで開かれた「世界平和デー」に話を転じた。同市の本願寺仏教協会などが主催し、彼とともに原田真二さん(48)ら広島ゆかりの歌手や演奏家四人も参加した野外コンサートである。

 「私はあの場で被爆者や日本人に『アイ・アム・ソーリー』と心から謝罪したかった。国家に代わることはできないけれど、一人一人の思いを表すことも大切なことだから…」

 彼はアメリカ人の多くが確かな歴史検証もせず、被害の実態も知らないままに原爆投下を正当化し、良心の点検を十分してこなかったという。そのことが第二次世界大戦後の核軍拡競争を誘引してきたとも話す。

 私はあの日、ステージに立ったヤローさんの姿を思い出していた。この日と同じように、Tシャツにジーンズ姿。愛用のギターをつま弾きながら、彼は三十五分間ステージを務め、みんなと一緒に「花はどこへ行った」など三曲を歌った。歌う時間よりも、語りかける時間の方がはるかに長かった。

 彼は「謝罪」の言葉を口にすると同時に、広島・長崎から半世紀以上を経てはるかに破壊力を増し、核保有国も増えた「核に覆われた地球の危険性」を警告。「今こそ私たちは共に行動し、核時代の狂気を終わらせなければならない」と聴衆に訴えかけた。

 まるで弾き語りのようなヤローさんの言葉はどこまでもソフトだ。だが、市民に行動を呼びかける彼のメッセージには、熱い思いが込められていた。

 ■教師3万人参加

ピーター・ポール&マリー
 1961年、「ピーター・ポール&マリー」の名前で、フォークソング・グループとしてニューヨークでデビュー。「ピーター」・ヤロー、ノエル・「ポール」・ストーキー(69)、「マリー」・トラバース(70)の3人の名前からグループ名をつける。62年にファーストアルバム「ピーター・ポール&マリー」を発売。「花はどこへ行った」「500マイル」「レモンツリー」など今も歌い継がれる名曲が含まれ大ヒットした。60年代を通じ最も人気を博したフォークソング・グループの一つで、公民権運動やベトナム反戦運動でも一線に立ち続けた。

 3人は70年にソロ活動に入るために解散。しかし78年に再結成して新たなアルバムをリリースしたり、コンサートツアーを続けたりしてきた。同時に個人としても音楽、社会活動を継続。ヤローさんは長女のベサニーさんと歌うことも多い。ストーキーさんは北朝鮮に拉致された横田めぐみさんの救出を願って「めぐみに捧(ささ)げる歌」をつくり、今年2月に来日し、発表した。
 ヤローさんは「平和を築くには子どものときからの教育が大切」と、二〇〇〇年に「敬愛作戦」と名づけた非営利団体を創設していた。学校や野外活動などを通じて、子どもたちがより安全で、相手を思いやり、互いに尊敬し合う環境づくりを目指している。その目的達成のために「私を笑いものにしないで」という指導者向けのプログラムを開発。ピーター・ポール&マリーが同名の歌を歌っている。

 「子どものときのいじめやあざけり、暴力…それが大人になってからの戦争にもつながっていく。人間として互いに認め合い、対立を話し合いで解決する術(すべ)を小さいときから身につけることが大切なんだよ」

 国内ではすでに十二万部以上の指導資料を教育関係者に無料で配布。三万人を超す教師らが「私を笑いものにしないで」のワークショップに参加している。外国でもカナダをはじめ、英国、クロアチア、南アフリカ共和国、イスラエルなどに広がっており、ヤローさん自身も推進役でそれぞれの国を訪ねている。

 ベトナム戦争時代に青年期を迎えた私も、ピーター・ポール&マリーの反戦ソングはよく聴いたものである。だが、私には音楽家としてのヤローさんの姿しかイメージになかった。社会活動にも深くかかわった半世紀近い彼の歩みは「アメリカの良心」を取り戻そうとする闘いのようにも映る。

 ヤローさんは、これからも「より公正で、より平和なアメリカ社会と世界」の実現のために歌い、社会活動を続けるだろう。被爆地広島での平和コンサートの実現も、彼の夢の一つである。


被爆61周年の広島の日に合わせた「世界平和デー」の野外コンサートで、原田真二さん(左から3人目)ら広島ゆかりの歌手や演奏家4人と一緒に「風に吹かれて」を歌うピーター・ヤローさん。「歌で心を結び、憎しみや恐怖に代わる愛をはぐくもう」と語りかけた(ニューヨーク市) 自宅台所の食卓で、グレープフルーツジュースをつくるピーター・ヤローさん(ニューヨーク市)

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