建物疎開

キラキラ輝くB29がきれいで
見ていたら突然青白い光が…
 


 中島慶人さん(16)と藤原かすみさん(15)の高校生二人が、広島市中区の八丁堀地区を訪ねた。
六十年前、竹村伸生さん(72)=広島県大野町=は、地獄と化したここから生き延びた。
級友たち四百人以上が犠牲となった追悼の地でもある。



 -竹村
 旧制崇徳中(現崇徳中・高校)一年生でした。建物疎開中で、爆心地から東へ八百メートルほど。

 -中島
 建物疎開って、戦火が広がらないようにするためだったんですよね。

 -竹村
 昔の家はみな木造じゃったからね。米国の爆撃のほとんどが焼夷(しょうい)弾じゃったから、延焼を防ぐために壊した。今の百メートル道路(平和大通り)も防火帯の跡なんよ。県庁があった水主町(中区加古町)や、市役所そばの雑魚場町(同区国泰寺町)でもどんどん家が壊された。

 -藤原
 みんな私たちと同じくらいの年ですよね。

 -竹村
 うん。それまでは午前中に勉強して、午後からは軍需工場や農家を手伝った。若い男は兵隊に取られて働き手がおらんからね。電車の車掌から郵便局から、みな学徒がやりよった。わしらは(一九四五年)八月三日から建物疎開に出動した。初日が土橋町(中区)で、四日と五日は中島町(同)。

 -中島
 家って、どんな風に壊すんですか。

 -竹村
 まず兵隊や建設業者が壁をめいで、柱にのこを入れる。ほいで三年生以上が二十から三十人くらい寄って、柱に巻いたロープを「よいしょ、よいしょ」と引き倒す。わしら一、二年生は力がないけえ、廃材を一カ所に集めよった。

 高校生二人は、初めて聞く建物疎開の実態に息をのみこむ。

 -竹村
 わしはね、実は六日は作業しよらんのよ。家を倒すと、柱のあちこちからくぎが出る。当時は革靴でなく、地下足袋の薄いようなのを履いて作業しょうるから、(五日の自分のように)くぎを踏んでけがするんがようけおった。

 中島さんは右手の指を開き、地下足袋の形をまねてみせる。

 -竹村
 そう。祇園町の家(安佐南区長束)から可部線の電車で横川駅まで出て八丁堀まで歩いたが、痛くてどうにもならん。点呼の前に先生に「休ましてくれ」言うたんじゃ。そんなこと言えるような時代じゃなかったけど、痛いけえ執拗(しつよう)にお願いした。それで、道路の反対側で荷物の番することになったんよ。

 当時この辺りにいて犠牲になった崇徳中一、二年生は引率教師六人を含め四百十一人。竹村さんが後日確認した生き残りはわずか五人。

 -竹村
 みんな「あちいのう」って。上半身裸で作業するのもおった。わしの目の前にはトラックが止まっておってね。見上げたら、B29が音もなくスーッと入ってきた。機体がキラキラ光って、ほんときれいじゃった。ほかのもんも作業の手を止めて見よった。

 -中島
 怖いとかはなかったんですか。

 -竹村
 広島はそれまで空襲がなかったからね。警戒警報もないし、安心して見よった。そしたら青白くドヨドヨした光が。爆弾だと思った。両手で目と耳をふさいで伏せる訓練を日ごろからしよったから、とっさに体が動いた。ドーンと音がして体が浮いた気がするんじゃけど、そっから先は覚えとらんのよ。

 メモを取る二人の手が止まる。

 -竹村
 「お母さん、痛いよー」って声でわれに返った。何と目が見えん。心配になったがやがて見えるようになり、またびっくり。目の前の家がみな、ないんじゃけえ。ぺしゃんこ。夢中で逃げる途中、「竹村よ、お前はやけどが軽いのう」言うんがおる。初めは誰か分からんかった。

 -中島
 やけど。

 -竹村
 そう。顔が腫れ、声と着衣で確認するのがやっと。空を見上げとったから、顔をひどく焼かれた。見ずにまじめに働いとったんは、背中を焼かれた。動けず逃げれんのは、ひたすら助けを待っとったんよ…。

 -中島
 竹村さんが助かったのは、トラックの陰にいたから。

 -竹村
 たぶんね。(爆心地から)八百メートルじゃけえ、わしのやけども決して軽くはなかったんよ。首から手から、大やけどだった。それでも同級生らと比べたら…。サボって休んだわけじゃない、同じ場所におったけえ、みんなに済まんという気持ちはないんじゃが…。

 竹村さんの声が、すっとすぼんだ。この後、三十分ばかり被爆直後の体験を話した。もだえる被爆者に水をあげたこと、足を引きずって祇園町の自宅に戻ったこと。二人は、ひたすら聞き入った。

 -中島
 建物疎開のことをもっと教えてください。

 -竹村
 一年生は五学級あり、それぞれ作業しよった。瓦は瓦、燃えるんは燃えるんで分けてね。全部は燃やせれんけえ、柱はたき付けに欲しい言う人に配りよった。

 -藤原
 作業中はどんな話をしたんですか。

 -竹村
 「あちいのー。しんどいのー」とは言いよった。ふざけ話はしよらんかったよ。

 -中島
 不満は言わなかったんですか。

 -竹村
 そんなことじゃあ「非国民」と言われる。「お国のため」いう意識が啓蒙(けいもう)されとった。

 -藤原
 雨が降っても作業したんですか。

 -竹村
 休みだって関係なし。「月月火水木金金」なんて言葉もあった。ほとんどが「立派な軍人になりたい」と言いよったんよ。

 -藤原
 軍人が、あこがれだったんですか。

 -竹村
 「お国のため」になる一番の近道じゃったからね。

 -中島
 休憩時間はどうしてたんですか。

 -竹村
 親しいのがそれぞれに話をした。女学校も作業をしよったから、「あの子はかわいいのー」とかね。まだ中学生じゃけえ。休憩が終わったら、また私語もせずに働いたがね。

 顔を赤らめる竹村さん。崇徳中が被爆直後につくった罹災(りさい)者名簿のコピーを取り出した。

 -竹村
 十年前から生徒の名前、死んだ日や場所、死に方を調べとるんよ。「天皇陛下万歳」と言って死んだんがおる。「お母さん」と息を引き取ったんがおる。玉音放送に涙していったんもおる。残しておけば、原爆の悲惨さが分かる。子どもが、どんなにむごい死に方をしたか分かる。みな助けを待ちよった。生き残ったのが、無念を伝えにゃ。

 -中島
 先日、サダコ像(中区の平和記念公園にある原爆の子の像)前で「広島は平和だと思いますか」とアンケートを取ったんです。協力者の中には被爆者もいたけど、「原爆を思い出したくない。それよりも平和な未来のことを考えてほしい」って。つらい記憶を話したくないんだなって思った。

 -藤原
 (中区の原爆養護ホーム)舟入むつみ園に被爆者を訪ねたとき、「あまり話したくない」って言われた。でも「残り少ない人生だから、話しておきたい」とも言われた。

 -竹村
 年を取って「今のうちに話さにゃ」という人が、思った以上にいっぱい出てきとる。わしはその声を聞いとるんよ。じっくり時間をかけて。数はまだ(崇徳中の犠牲者の)一割程度じゃがね。あなたら若い人に協力してもらえたらうれしいね。



1945年7月25日時点の広島市での建物疎開の実施状況。水色が作業が済んだ地域。同日に米軍が広島市上空から撮影した航空写真を広島国際大の石丸紀興教授たちが分析した。点線内は8月6日の作業場所で、原爆資料館が調べた


「みな、ここで助けを待っとった」。
被爆当時の建物疎開現場で、中島さん(中)と藤原さん(右)に体験を語る竹村さん=広島市中区(撮影・今田豊) 




八丁堀地区の建物疎開作業で被爆し、翌日死去した崇徳中1年生岡本昭三君=当時(12)=がはいていたズボン
(岡本和子さん提供、原爆資料館所蔵)




浜田義雄さん(故人)が竹屋町(中区)付近での建物疎開作業の様子を描いた「原爆の絵」
(原爆資料館提供)




原爆犠牲者の名前をつづった旧制崇徳中の罹災者名簿。当時は4年制で、進路未定者のための「附設科」もあった






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戦時下の学校制度

  1941年の教育改革で、それまでの尋常小学校(6年制)と高等小学校(2年制)が義務教育8年制の国民学校となった。初等科(6年制)を卒業後は、高等科(2年制)に進むか、中等学校(中学校、高等女学校、実業学校)に進学する選択肢もあった。中等学校は5年制だったが、43年から1年短縮して4年制となり、12―16歳が通学していた。

 中・高校生ピースクラブ
 原爆資料館が2002年度から、被爆体験の継承などを狙いに公募している。1年間の期間中に、被爆者の体験を聞いたり、碑めぐりをしたりして平和学習をする。グループ研究を経て発表会で活動を締めくくる。本年度は35人が参加し、29日に原爆資料館東館で発表会を開く。


 



 語り終えて

竹村さん
心に刻み 取り組み継続を

 被爆当時十二歳だった私は、体験を語れる一番下の世代に近いだろう。被爆者の老いが進む今、記憶に残る限りを語り、原爆の残酷さを広めたいという思いが強まった。
 平和の受け止めはそれぞれだと思うが、その一歩として、六十年前に広島で起きたことを心に刻んでほしい。しっかり引き継いでもらいたい。
 (若者たちが)被爆体験を聞き、それをそのまま話すのは難しいと思う。それでも、勇気をもって一歩を踏み出してほしい。「8・6」だけの行事ととらまえないで、継続して取り組んでほしい。


 聞き終えて

中島さん
本調べても分からぬこと

 建物疎開は、言葉でこそ聞いたことがあったけど、詳しいことは知らなかった。厳しい暑さのなかで私語もせず、作業に集中し続けるなんて、僕にはとてもできない。
 竹村さんの話は、本で調べて分かることじゃない。話を聞いたからこそ理解できた。これまで勉強したどんなことより、はるかに大切だと思った。「歴史上の事実」では終わらせられない。


藤原さん
私より幼い年で…つらい

 いつの間にか自分の身に置き換えて聞いた。建物疎開しながら、友だちとどんな話をしただろう…。原爆に遭った知り合いを見て、どんな気持ちになるだろう…。
 私より幼い年で、国のためにボロボロになって働くなんて。お金がもらえるわけでもない、いい食事だってできない。遊んだり、学んだり、やりたいことがいっぱいあったろうに。つらい。




担当記者から

 暮らしや時代 理解が不可欠

 実は私たちも「建物疎開」の言葉を初めて聞いたとき、家を壊さずに移動させる作業を連想した。六十年の歳月がもたらす誤解であり、歴史の壁なのだろう。
 二人の高校生も、当時の作業にこだわって質問を繰り返し、必死に連想しようとしていた。現在の自分たちの境遇との違いに、戸惑いは大きかったようだ。被爆の記憶を世代間で受け継ぐには、当時の暮らしぶりや時代背景を知ることも欠かせない。継承がいかに大変な作業かをあらためて痛感した。(桜井邦彦、門脇正樹


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