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建物疎開 |
防火帯つくる建物疎開作業
学徒・教師5959人が犠牲
一九四四年三月に閣議決定された学徒動員実施要綱や、同年七月の文部省通達で、国民学校高等科や中等学校以上の学生・生徒が軍需工場などで働く勤労奉仕が始まった。 都市部の民家などを強制的に立ち退かせて防火帯を設ける建物疎開は、広島市では同年十一月の内務省告示に基づき同年末に始まった。第一―五次を終え、多数の学徒が動員された第六次の作業中に原爆が投下された。 広島国際大の石丸紀興教授は、米軍が原爆投下前の四五年七月二十五日に撮影した市街地の航空写真を利用して実施状況を分析。現在の平和大通り沿いなどが空き地になっている様子がうかがえる。 学徒たちがあの日に作業していた場所は、 (1)県庁付近(水主町や材木町など) (2)市役所付近(雑魚場町) (3)鶴見橋付近(鶴見町と昭和町) (4)土橋付近(堺町など) (5)八丁堀付近 (6)電信隊付近(皆実町) (7)楠木町 ―の七地域。多くは爆心地に近く、屋外だったため、膨大な犠牲者を生んだ。 原爆資料館(中区)が「広島原爆戦災誌」や「広島県戦災史」に各学校史などを加えて再整理した結果、建物疎開中の犠牲は、引率教師も含め三十九校の計五千九百五十九人に上る。 軍需工場なども含めれば、約二万六千八百人の学徒が動員され、約七千二百人が被爆死した。 年少の国民学校三―六年生は郊外や農村部に集団疎開していた。人的被害は少ないものの、家族を亡くした「原爆孤児」も多く、苦難の戦後が続いた。 |
建物疎開作業での学徒・引率教師死没者数 (原爆資料館調べ)
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