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加害と被害 |
銃撃戦と被爆を生き残る
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広島市中区、野田利忠さん(87)は生涯で二度、死のふちを見た。最初は戦争で銃撃を交えた中国大陸。銃で敵に狙いを定めた右目が、逆に敵の弾丸にえぐられた。二度目は広島。原爆投下だ。 日中戦争二年目の一九三八年、野田さんは陸軍歩兵第十一連隊の補充兵として宇品(南区)から軍用船で中国へ渡った。志願兵ではあったが、当時の日本を染めた軍国主義に「あらがえなかった。非国民と言われたくなかった」という。 当初一年余り、戦闘とは無縁だった。どこも、中国軍は撤退した後だった。しかし戦地での日々は、人間らしさを削り取る。無人の村に残された家畜や農作物を略奪したこともある。三九年十二月、初の銃撃戦。二十二歳の青年兵はとうとう、敵の三人を撃った。直後に顔の右側に衝撃を受けた。戦線を離脱した。 その後の戦況の悪化が再び、野田さんを軍に呼び戻す。あの日、西練兵場の北側、広島城の東側にあった第十一連隊の兵舎にいた。前夜から続く空襲・警戒警報がようやく静まり、軍装を解いた直後だった。 爆心地から一キロ未満、現在の中区上八丁堀辺り。頭を打ち、記憶はあまりない。気が付くと鮮血に左目をふさがれ、同僚の助けで近くの泉邸(現縮景園)に避難した。二カ月後、比治山(南区)山頂近くから焼け野原を望んだ時、生き残った意味を考えた。 ぬぐっても消えない加害と被害の記憶―。広島大(東広島市)総合科学部四年の堀岡伸之さん(22)は今夏、留学生仲間たちと「戦争」をめぐり意見交換会を開く。加害も被害も考えたいと思うが、被爆者と対話するきっかけがつかめずにいた。友人で中国人留学生の唐豊智さん(20)、法学部四年の宮川歓子さん(21)を誘って、野田さんを訪ねた。 戦後、定年まで高校教員を務めた野田さんは、三人をためらいなく受け入れた。縮景園や比治山を歩き、加害者になり、被害者にもなった体験を伝えた。国とは何か、戦争とは何か、そして核兵器を持つ意味とは…。対話は延々と続いた。 |
【写真説明】縮景園の池のほとりで、野田さん(左端)は記憶を淡々と語った。神妙な面持ちで聞く左から堀岡さん、唐さん、宮川さん (撮影・松元潮) |