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加害と被害 |
撃たにゃあ敵に殺される
戦争は異常。始めちゃいけん
被爆者の野田利忠さん(87)は、広島大の堀岡伸之さん(22)と宮川歓子さん(21)、中国人留学生の唐豊智さん(20)とともに、
広島市南区の比治山へ向かった。
「あの日」から二カ月後、ここから廃虚になった市街地を見下ろした。
-野田 (あの日は)空襲警報が解除になり暑かったから、上半身は脱いでズボン下一つ。光線に遭わんかったから、やけどはなかった。兵舎が押しつぶされ、木が落ちて頭を打っとるから、記憶はあんまりないんですよ。 歩兵第十一連隊の兵舎にいた。爆心地から一キロ未満。一緒にいた三十人の兵のうち生き残ったのは三人という。鮮血が顔を伝った野田さんは、同僚に連れられ、近くの泉邸(現縮景園)へ逃れた。 -野田 火が来たから京橋川を渡って(さらに東へ)逃げた。天皇の写真や勅語を入れた鉄の箱を引きずって逃げよった兵隊もおった。 -唐 ええっ。 広島駅近くの東練兵場で約一週間過ごし、その後は広島県大野町の国民学校で療養した。 -野田 会話をしとったのが、その晩に亡くなる。最後まで意識はあったのが、パタッと逝きよる。 -堀岡 どういう気持ちでしたか。 -野田 悲しいじゃ何じゃ思わん。あまりに悲惨なことが多くて。 その後、野田さんは山口市の部隊に再召集され、八月二十八日に解散。能美島の母のもとに帰った。 -野田 毛が抜け出したんよ。下半身には斑点が出だした。四〇度の熱が出てつろうて、つろうて。便所に行くのも、ほうて(はって)行った。ドクダミをせんじてもろうて飲んだ。畳を積み重ね、寄りかかって二十四時間過ごした。 -宮川 比治山に来られたのはいつですか。 -野田 十月。広島市内がどうなっとるかと思うてね。ここも、大きな松の木が折れとるわけよ。(原爆の)風圧で。何本も。 唐さんが日中戦争について切り出した。 -野田 私は、すまんすまんと、思うとる。 一九三八年一月、野田さんは歩兵第十一連隊補充隊に入り、日中戦争に参戦した。 -唐 日本人は戦争を望んでいたのですか。 -野田 一般の者は嫌っとるですよ。軍隊が引っ張っていたんです。 -唐 日清戦争は日本が勝ちました。何でもう一度、侵略しましたか。 -野田 中国は内乱が起きとったでしょう。もめとったところへ日本がつけ込んだわけよ。 -唐 野田さんはどう戦ったのですか。 -野田 鉄砲をほとんど撃たずに、最後にこれをやられたとき、山の中で入り乱れて撃ち合いをしたわけ。 右目を指し、野田さんは中国南部・南寧での戦闘を振り返った。 -野田 (敵の補給ルートを)焼きに行けと。その帰りに待ち伏せされ、向こうの兵隊を撃った。二、三人殺したかね。そしたらポンポンポン。目から火が出た。棒で頭をたたかれたよう。意識がもうろうとしてね、戦友が連れて帰ってくれにゃあ、殺されてますよ。 -宮川 弾がかすったんですか。 -野田 骨が欠けとる。弾が通った。 -宮川 銃を撃つ気持ちって。 -野田 任務としてしょうがない。やらにゃあ上から殴られる。撃たにゃあ(敵に)殺される。 -宮川 撃つことに罪悪感は。 -野田 うーん、まあ、戦争いうたら、異常ですよね。人を殺すのは一番悪い。ねえ。じゃから、戦争を始めるいうことが一番いけん。 -唐 中国で戦闘に何回、参加しましたか。 -野田 鉄砲を撃ち合うたのはこのときだけで、後はわれわれが行くとみな逃げた。 -宮川 撃たれた後はどう思いました。 -野田 そうじゃねえ、若いからね、治療したらまた前線に行くつもりじゃった。 -宮川 撃った人間が憎いとかは。 -野田 いや、そういうのは。こっちもやったし。日本の軍隊は現地調達主義で、稲穂をとって鉄かぶとでついて、玄米にして食べたもんです。豚もよう殺した。一頭ありゃあ、ちょうど十四、五人のごちそうになるわけよね。ありゃあ、悪いことをした。 一九四〇年初め、野田さんは船で日本に帰った。 -野田 若かったからね、軍旗と一緒に帰るか、白木の箱に骨になって帰るかくらいに思うとった。神様がほかの仕事をせえいうことじゃ思うて勉強した。広島高等師範学校、それから広島文理科大。広島大の前身よね。それへ入った。 その後も銃弾を受けた辺りが痛んだ。 -野田 梅雨時は、頭が割れるように痛いんよ。そこで試験がある。論理学なんかね、赤点。困ってねえ。(そうこうしているうちに)四五年の六月二十三日に召集され、原爆に遭うた。 野田さんが話題を変え、唐さんに向けた。 -野田 ところで、中国で原爆のことは習いましたか。 -唐 日清戦争から日本は中国に悪いことをした。中国を植民地にし、普通の人を殺した。原爆の後、日本は戦争をやめました。教科書で、二十何万人が亡くなり、広島は全部壊れたと教えてもらいました。 唐さんは、中国の核保有について語り始めた。 -唐 中国は土地も大きいし人口も多い。これが原爆を持っている理由です。 -野田 持っちゃあいけん思うんですよ。 -唐 国の安全のため。核兵器の(開発や使用の)競争は悪い。持っているのは多分、大丈夫。多いのはだめ。 -堀岡 僕は、広島の悲惨な状況を知れば知るほど、人の命を軽く思う気持ちが原爆を生んだと思うんです。原爆が存在していること自体、僕らがまひしている。 -宮川 無差別に人を殺し、(放射線は)後になっても被爆者を苦しめる。核を持つこと自体がおかしい。ただ、核抑止の考えがあるのも分かる。どっちつかずって感じはします、自分でも。 唐さんが原爆資料館(中区)を見学しての思いを語り始めた。 -唐 原爆は怖い。米国と中国とロシアの核兵器はみんなで少なくしていくことが必要。だんだん。私も、平和のために頑張ります。中国は核兵器を絶対に使わないと思う。 -野田 大国のメンツもあるかもしれんが、使うちゃあいけません。 -唐 今は、抑止力は必要と思います。 -野田 とにかく、人類がえろうなって、戦争だけはやらんようにせにゃあいけませんの。やられたほうもやったほうも、ええこたあ、ありません。戦争は反対。これだけじゃ。中国で悪いことをしました。ほんま。 -堀岡 被爆してから、中国を攻めたことへの考えは変わりましたか。 -野田 因果応報ですよね。よその人をいじめちゃあいけん。中国を攻めていったのは事実。一番大きな罪です。 -堀岡 野田さんは、権力の被害者だとも思うんですよ。 -野田 政策決定する人の責任は大きい。日本は無責任な国じゃ。 -堀岡 被爆後、教育の道に進まれたのはすごいなあと思う。(歴史認識や相互理解には)教育が一番大事かなあと。 野田さんは戦後、高校の数学教員になった。 -宮川 戦争の話とかされたんですか。 -野田 しました。じゃがね、(敗戦から)二十年過ぎると(生徒が)興味を示さんようになって、あんまりせんようになった。表だって話すのは好きじゃないし。 日中関係は今も、中国で反日デモが相次いだりと、歴史認識の溝が克服できていない。 -堀岡 お互いの歴史を知り、認め合うことが大事と思います。 -野田 正しい歴史というもんは、あるんかねえ。いろいろ(な見方が)あってしかるべきじゃが、うそを教えちゃあいかん。 |
![]() 「ここらの松もかなり折れとった」。比治山から広島市街地を見下ろしながら、左から堀岡さん、唐さん、宮川さんに被爆直後の様子を語る野田さん(撮影・松元潮) ![]()
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語り終えて |
野田さん 反省の上に平和築いて 戦争と被爆の両方の体験を文章に残そうと思っていた。久しぶりに話し、聞いてもらえたことが何よりうれしい。しかも私の体験を基に、こんなに活発な意見を出し合ってくれるとは思いもしなかった。 ただ、私が中国の侵略に加担したのは事実。唐君が気を悪くせんかったかなあ。今考えりゃあ、おかしいことだけど、戦争に身を置いたら人はおかしくなる。原爆はいけん。戦争はいけん。悪いことしたなあと反省しているからこそ、二度とせんように考えてほしい。 |
聞き終えて |
堀岡さん 人間の進歩 信じたい 加害と被害の両方の経験を聞いたが、やはり野田さんも戦争の犠牲者だと思った。「核兵器を持つのは仕方ない」「戦争はなくならないんじゃないか」などと、あきらめのような発言をする人もいるけれど、人間が造った核兵器や戦争を、人間がなくせないわけがない。そう信じたい。 宮川さん 痛み・怖さ 想像難しい 近くに敵兵がいるかもしれない恐怖が実感としてわかない。撃たれたことや被爆も同じ。体験のない私には痛みや怖さはわからず、想像さえ難しい。考え方や教育の違いかもしれない。先入観を持たずにアンテナを広げ、世界の戦場が少なくなるよう、できることを探し、実行したい。 唐さん 感情の表し方 迷った 母国で残虐行為をした日本兵を憎む一方、被爆者を哀れむ自分がいて、感情をうまく表現できなかった。日本は他国を侵略し、だから、原爆を落とされた。それが根本だと思う。核兵器を使ってはいけないし、減らさないといけない。でも何よりもまず、戦争をなくさないといけない。 |
●担当記者から 共通認識議論の出発点に アジアの人に、原爆についての意見を求めると「でも、日本は悪いことをしたでしょう」と返ってくる。加害はよくない。だからといって、原爆投下を「やむを得ない」とするわけにはいかない。 どうすれば共通の土台で語り合えるか。今回の対談でも戦争と核兵器保有をめぐり、唐さんと野田さんは譲れない思いをぶつけ合った。ただ、互いに「戦争はいけない」と共通認識はある。そこを出発点に、議論を重ねるしかないのだろう。(桜井邦彦、門脇正樹) |