社説・天風録
(天風録)被爆体験を語り伝える '04/8/3

「生き延びたるわれ責めし 被爆死の友の母も逝きて慰霊の碑(いしぶみ)の前」。呉市神原町に住む歌人、梶山雅子さん(71)が最近詠んだ歌である▲梶山さんは8・6当時、広島第一県女(現皆実高校)の一年生で、十二歳だった。虫垂炎手術の後で学校を休み、爆心地から約一・二キロの自宅で被爆、がれきの中からはい出て助かった。同級生は爆心地から七百メートル、建物疎開の作業中に全滅した▲生き残った「負い目」から、友達のお母さんに会うのがつらい日々が続いた。やっと語り部として修学旅行生の前に立つようになったのは、被爆から五十年目。生かされた者の務めと思うようになったからだ▲県女の慰霊碑は広島市中区小町、平和大通りの緑地帯にある。梶山さんは全国からやってくる修学旅行生に、刻まれた三百一人の名前を指さしながら「あんなむごい死に方をした」と語りかけてきた。その子どもたちは数千人にもなる。友と同じ年ごろの修学旅行生は、いつの間にか孫の年齢である▲梶山さんに会った後、たまたま年老いた母から、被爆死した「いとこ」の話を聞いた。遺骨も見つかっていない、と以前から聞いてはいたが、うかつにも梶山さんと同じ県女の一年生だったと初めて知った。早速、県女の慰霊碑を訪れ、刻まれたいとこの名前を確認して手を合わせた▲梶山さんは今年も8・6の朝、慰霊碑の前に立つ。「友の死の意味は何だったのか」。あの日から五十九年、問い続けている。

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