被爆者を似島へ運んだ船員の妻、広島再訪

'98/8/6

 原爆投下直後、広島市南区の宇品港から、沖合の似島へ被爆者を 運んだ輸送船の乗組員、三原マスエさん(70)=香川県観音寺市=が 五日、昨年他界した夫の形見の被爆羅針盤を携え、戦後初めて広島 を訪れた。似島の野戦病院に運ばれ、九死に一生を得た広島県被団 協の坪井直事務局長(73)と宇品港で対面した。

 三原さんは一九四五(昭和二十)年五月、勲さんと結婚。同時 に、義父が船長で、旧陸軍暁部隊に徴用されていた木造輸送船神力 丸(五〇トン)に乗り込み、機関長の勲さんとともに物資運搬の仕事 に就いた。

 八月六日、宇品港に係留中の船から下船していた三原さんは、爆 心から四・五キロの宇品で被爆。軍の命令で終戦までの十日間近く広 島に滞留し、何百人もの被爆者を似島に運び続けた。

 坪井さんと会った三原さんは「船内のむしろの上で、ひん死の被 爆者がうめき声を上げる光景は、地獄絵でした」と回想。「生きて 島を出た方と再会できるとは、思ってもみなかった」と声を詰まら せた。

 坪井さんは、神力丸の写真を見せられ、「この船、この船」と声 を上げた。似島に渡り、到着四日後から約四十日間、意識を失っ た。「死を覚悟した船内の記憶が、ぐっと浮かんでた。複数の船が あり、神力丸に乗ったと断言できないが、あなた方は命の恩人で す」と頭を下げた。

 似島には一万人以上が収容され、死者は三千人を超すと言われ る。三原さんは戦後、悲惨な記憶を呼び覚ます広島には「二度と行 きたくない」と避けてきた。しかし、勲さんが昨年、七十八歳で病 死し、新婚の地で、人生の転機にもなった広島再訪を決めた。

 「いつまでも元気で、核のない世界が実現するよう努力しましょ う」。勲さんが保存していた神力丸の被爆羅針盤を手に、二人の被 爆者は固く約束した。

【写真説明】「ひん死の被爆者を乗せた船内は、地獄のようでした」。53年前の記憶を確かめ合う三原さん奄ニ坪井さん


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