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家族奪われ苦難の人生 | (4) |
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■680人が避難 都心のビル街を見下ろす日立造船東京本社の社長室。社長の南(旧姓浦島)維三さん(66)=大阪府高槻市=は、遠くを見詰めるような表情になった。「帰る場所もなく、何もかも白紙になりました」。五十四年前の夏、袋町国民学校(現・袋町小)六年生の時、学童疎開中に原爆で親も家も失った。 「木村先生来校 皆様によろしくとの傳言あり」。袋町小の「伝言板」には、広島県双三郡神杉村(現三次市)の疎開先へ児童を引率していた木村武三さん(87)=広島市中区広瀬北町=の名前も残る。 木村先生が原爆投下から数日後に訪れた学校付近は、一面焼け野原で教え子の家は跡形もなかった。疎開先に戻り、様子を知りたがる児童に、無理に笑顔をつくって「君の家は大丈夫だったぞ」と答えた。「どうしても事実が言えなかったんですよ」と明かす。 袋町小からの集団疎開児童は約六百八十人。両親を失った子どもたちは「原爆孤児」と呼ばれた。 南さんも、幼くして父を亡くし、母は被爆死した。矢賀(東区)の工場に学徒動員中で助かった兄と二人で、叔父夫婦に養子として引き取られた。叔父夫婦も南さんと同い年の子を原爆で失った。戦後の生活は、転居先の福山市の社宅で始まり、手厚く育ててくれた。だが、両親を亡くした寂しさを感じることもあった。転校先ではいじめに遭った。
広島大工学部を経て日立造船に入社。煙突や橋りょう設計などで実績を積み四年前、四千人余りの社員の頂点に立った。職場はめまぐるしく変わったが、抵抗感はなかった。「生きる術として、環境に適応する能力が自然と身に付いたのでしょうか」 南さんがデスクに八枚の墨絵を広げた。二十四年前に、級友や木村先生たちと疎開先を再訪し、当時の生活を再現した自作の絵だ。 「人生は紙一重の差。おじさんに引き取られなかったら、どうなっていたか分からない」と振り返りながら、南さんは力を込めた。「体験や思いはそれぞれ違い、触れたくないこともあるだろうが、これだけは絶対に伝えなければ。原爆が人の運命をどんなに変えたかを」 ■姉弟2人で 同級生で、同じ神杉に疎開した岸田町子さん(66)=東京都品川区=は、母と兄を原爆に奪われた。復員して再起を図った父も、四年後に失意の果てに亡くなった。「今思うと、生活苦が重なり、つらいことも多かったのだろう。弟と二人残され、当時は父を随分と恨んだ」。半世紀を経ても涙があふれ、声が途切れる。 東京で看護婦として働きながら、弟を大学に行かせた。「つらいかどうかも分からないほど、必死で生きてきた。原爆さえなければ、全く違った人生になっていただろう」。すべてを運命として受け入れられるようになったのは、最近のことだという。 疎開組の一人で、同窓会の世話役を務める中川太芽雄さん(65)=廿日市市峰高一丁目=は、そんな級友たちを複雑な気持ちで見つめる。自分の家族は奇跡的に全員無事だった。「申し訳ない」との思いも交錯する。 三年前、母校が改築されると聞き、疎開児童が集まった。南さんも岸田さんも帰ってきた。農作業、ノミやシラミ退治などの思い出話に花が咲いた。だが、その後の人生には、お互い立ち入らない。 「口をつぐむ人の気持ちは痛いほど分かる。それでも、学童疎開と原爆についてできる限り記録に残したい」と中川さん。母校に南さんの墨絵などを展示し、次世代に伝える案を温めている。 |