'99.7.11


被爆証人継承に使命感 (6)

保存求めて
 同窓生らが呼び掛け

 袋町小(広島市中区)の全面改築を前に、西校舎一階の階段側面の漆喰(しっくい)を工事関係者がハンマーで軽く叩いた。現れたコンクリート壁を、ぬらした指でなでると「寮内」の二文字が浮かび上がった。「まさか、残っているとは」。広島市教委の内部に驚きと戸惑いが広がった。三月十六日のことである。

■今ある姿で

 梅雨の晴れ間の六月二十日、原爆遺跡フィールドワークの一行二十人が、この西校舎を訪れた。被爆直後の伝言の一部を目の当たりにし、案内役の一人の山口裕子さん(66)=広島市東区福田八丁目=が声を振り絞るように訴えた。「現れた伝言板を、今ある姿で二十一世紀に伝えたいんです」

 山口さんは、袋町小の前身である袋町国民学校を一九四五年三月に卒業した。その五カ月後、原爆で両親と祖母、二人の姉を奪われ、自らも南区西霞町の比治山高女(現比治山女子中・高校)の校舎の中で被爆した。「実は、最近まで被爆した西校舎が怖くて仕方なかったんです」。みんなの前でそう打ち明けた。

 校舎の壁に伝言が記された被爆直後の広島。爆心地近くの国民学校の様子が、山口さんの頭にこびりついて離れない。「校舎には負傷者があふれていた。遺体を焼く煙がくすぶり、遺骨が校庭のあちこちにあった」。西校舎は、当時十二歳の少女の心に深く刻まれた傷をうずかせる被爆の証人だった。

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袋町小西校舎を見学するフィールドワークの参加者。伝言板の全面調査を求めてきた(6月20日)
■市に要請書

 母校の全面改築計画を知ったのは三年前の冬。なぜか身を切られるような思いがあふれ、避けていた西校舎へ向かっていた。「被爆の痕跡をとどめる建物が、いとも簡単に消し去られる。私たち被爆者はもういらない、と言われたような気がしたんです」。被爆建物の保存を目指す市民グループ、原爆遺跡保存運動懇談会に加わった動機でもあった。

 フィールドワークに先立って保存懇は五月末、西校舎全体の調査などを求める要請書を市教委に提出した。話し合いの席で、市教委幹部は「伝言が出た一階階段回りは調査して保存することは決まっている。他の場所に伝言があるという情報はない」と全面調査に乗り気ではなかった。

 市教委の改築計画では、一階階段周りと児童三人が奇跡的に助かった地下室の一部を歴史展示室として保存し、後は取り壊す。保存懇世話人として話し合いに同席した山口さんは、それを無念に思った。「被爆のあかしを、二十一世紀へ伝えて行くことこそが、平和都市ヒロシマの役割のはずなのに」と。

 袋町小の西校舎は、爆心地から約四百六十メートルの繁華街の一角に静かにたたずむ。見学に訪れる修学旅行生たちも、伝言板をくい入るように見詰める。同窓生有志たちが全面保存の声を上げ、ホームページでその活用方法について意見を募り始めた。

■調査を表明

 伝言板に消息が記された生徒の池田(旧姓瓢)文子さん(66)=北九州市小倉北区=はいう。「写真でしか見たことない、私のことを書いてくれた加藤先生の伝言を、ぜひ見てみたいですね」。その加藤好男さん(79)=広島市安佐南区=は「被爆の生々しい証拠が爆心近くにまだ残っていたんです。世界遺産になった原爆ドームと同じように大切にしてほしい」と願う。

 伝言板が出現してから三カ月半。今月一日、市教委は保存部分以外についても調査する意向を市議会文教委員会で明らかにした。

(城戸収、山根徹三)

=おわり=



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