中国新聞

「戦死」広島二中

99.11.20
(2)

亡き友悼む思い深く 昭和20年入学

中国新聞ビルにて
級友たちの遺品を手に話す左から時安、蔵田、宮郷、井上、藤山さん。卒業以来、初めて顔を合わす人もいた(広島市中区の中国新聞ビル)
 「登校する際は、いつもこれを腰袋に入れていました」「この中の軍人勅諭を暗唱させられ、一人が詰まると『全員の責任だ』と怒られて…」。髪に白いものが目立つ男たちは、亡き友が身に着けていた「戦陣訓」を手にすると、感慨深そうな表情になった。

 十六日付と十七日付の朝刊に掲載した「遺影は語る 広島二中」編。その取材の求めに応じて、一九四五(昭和二十)年四月に入学したかつての一年生五人が、本川右岸に建つ中国新聞ビルで顔を会わせた。このビルの対岸で、同級生たちは被爆し、全滅した。

数少ない同期生に声
 
 音頭を取った広島市南区の時安惇さん(66)は「死んだ彼らのために、われわれで役に立つなら」と、数少ない同期生に声を掛けた。

 広島二中は西観音町二丁目(現在の西区観音本町二丁目)にあり、一年生は六学級からなった。一クラス六十人はいたのではないかというが、五人の記憶は一致しない。親しく交わる日々はあまりに短く、そして原爆投下のうちについえたからだ。

 「教科書や制服も全員に行き渡っていませんでした」。一学級にいた広島県佐伯郡宮島町の藤山一さん(66)が言えば、同じ厳島国民学校(現・宮島小)から進んだ六学級の宮郷安輝さん(66)は「英語の授業はあったのに、敵の言葉だと、ゲートルは『巻き脚半』と呼んでいました」などと、入学後をこもごも振り返った。

 「国家総動員法第五条ノ規定ニ基ク…」。三、四年生は前年に公布された学徒勤労令で、三菱重工業広島機械製作所(西区)へ通年動員されていた。二年生に続いて、一年生も入学一カ月後には、防空ごうの穴掘りや、防火道路や避難地をつくるための建物疎開作業へ出るようになった。

2人の生存者が判明
 
 「シャベルなどの道具は自前で用意し、動員の時だけは市内でも電車を使うのが認められていました。それが運命を分けたんです」。現在の東広島市から通っていた三学級の井上昭喜さん(67)と、五学級の蔵田康幸さん(67)は顔を見合わせた。二人は「あの日」朝、広島駅で乗り換えの市内電車を待っていた。

 動員先は、爆心直下から約五百メートルとなった旧中島新町だった。その被災地跡に六一年建立された慰霊碑は、一年生三百二十一人の名前を刻む。

 今回の取材を通じて、碑に名前のある二人が健在であることが分かった。広島市内の自宅で被爆後、転校していた男性は「退職した二年前に初めて碑を見て気づきましたが、自分自身への責めもあり、当時のことは思い出したくありません」と言葉を切った。

 その碑前で毎年八月六日に営まれる慰霊祭に参列を欠かさない時安さんは、「生き残った」一人としての胸のうちをこう述べた。
 
席を並べた友は出動

 席を並べた友達は動員に出て、私は行かなかった。負い目は消えません。原爆でなければ、あれほどの友が死なずに済んだのでは、彼らの犠牲で戦争が終わり、今があるのでは…。何とも言い難いものがあります」

 五人とも身内や内輪の席を除けば、それぞれの原爆体験を話したことはない。話す気になれないという。広島駅で被爆した二人を除く三人は、前日までの動員作業でのけがや食糧調達のため、「あの日」休んだ。個々に行き来はしても、一度に顔をそろえたのは、バラック建ての校舎で卒業して以来、五十一年ぶりであった。


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