中国新聞

「戦死」広島二中

99.11.21
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「目的のため」命かける 学徒世代

個人邸のウバメガシに大ばさみを入れる谷口さん。「自分 の腕と責任をまっとうしたい」と、役所発注の仕事は手掛けずに個 人の庭だけを扱う(広島市西区の造園現場)
  はしごの上で身の丈半分もある大ばさみを自在に扱う。広島市西 区の谷口劼(かたし)さん(70)は、造園業が古くから盛んな己斐町 に生まれ、家業を継いだ。気がつけば、現場の一線に立っているの は戦後生まれの子どもたちの世代になった。

 「同業者からも、その年で高い木に登るのは怖くないかと聞かれ ます。今の人には笑われるかもしれませんが、目的のためなら死ぬ のは惜しくない、怖くないとの考えですから」。高さ十五、六メー トルで作業するのも珍しくない、と日焼けした顔をほころばせた。

毎朝隊列を組み出勤
 
 原爆が投下された一九四五(昭和二十)年、広島二中の四年生だ った。弟勲さん=当時(13)=が一年二学級にいた。「私らは前の年 から三菱の観音工場に毎日動員され、工場造成の土運びからスクリ ューの鋳物をつくっていました」。毎朝八時に隊列を組んで出勤 し、午後五時までの作業。軍歌の歌詞にある「月月火水木金金」の 勤務だった。

 八月六日は、爆心三・八キロの三菱重工業広島機械製作所で被爆 した。戻った自宅に勲さんの姿がなかったことから、一年生が動員 されていた中島新町へ向かった。崩れかけた橋を伝って三つの川を 渡り、西側手前の土橋電停近くで昼すぎ、同じ己斐町に住む一学級 の西村正照さん=当時(12)=を見つけ、家族のもとに運んだ。

 「弟も電停近くにおり、私の姿に気づいたのに『また来るだろう と思った』と後から言いました。こちらから尋ねない限りはものを 言わん男でした」。谷口さんは土橋電停の前に立つと、そう述懐し た。

防空ごうで弟を発見
 
  勲さんを見つけたのは、父と連れ立って再び捜しに入った六日深 夜。五学級の西本朝彦さん=当時(12)=と電停前にあった防空ごう に一緒にいた。長さ五メートル、幅二メートルのごうは、入り口の 片方は死者で埋まっていた。勲さんは、暗やみと死臭に覆われた中 で「西本も連れて帰ってくれぇ」と声を上げたという。

 谷口さん親子がそれぞれを背負って帰った己斐町の自宅で七日夜 明け、西本さんが「水を。お母さんに知らせて」と言って息を引き 取る。勲さんは空襲を避けるため昼すぎ、担架で山へ向かう途中の 「だんだん近くなって来たね」が最期の言葉となった。

 海ゆかば/水漬(みづ)くかばね/山ゆかば/草むすかばね/大 君の邊(へ)にこそ死なめ/かへりみはせじ

 一年生たちは被爆後に飛び込んだ本川で、少なからずこの「海行 かば」を口にし、「天皇陛下万歳」の声を振り絞った。もともとは 万葉の歌人、大伴家持が詠んだものが三七年に曲がついていた。

対象を変え打ち込む

 谷口さんも「あれを歌えなかった学徒はいない」と振り返る。上 級生から下級生へと唱和していた。「漠然とであっても、国のため に死ぬのは何とも思っていなかった。そうした考えしか持てなかっ た」とも。

 それが敗戦の途端に、教練担当者は学校から姿を消し、予科練帰 りの中学生は酒にたばこ―。「ぐちゃぐちゃになった」と感じた。 そして今に続く思いを、繕わずにこう話す。

 「目的のために命をささげる教育を受け、『戦争に勝つ』から、 私は『造園の仕事』に一生懸命になれた。しかし、弟たちが、その 機会もなく終わったのは何とも言えんですね」

 勲さんたちが飛び込んだ本川から土橋電停までは約三百メート ル。少年たちは、命を削ってその距離を歩いた。


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