中国新聞社

2000・2・12

被曝と人間第2部臨界事故の土壌[3]        
内閣安全保障室長 佐々 淳行

 

 

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さっさ・あつゆき 評論家。危機管理、安全保障問題が専門。1954年、警察庁に入り、東京大安田講堂事件、連合赤軍あさま山荘事件などの捜査に当たった。その後、防衛施設庁長官や、初代の内閣安全保障室長を務めた。東京都出身。69歳。

    危機管理 死角はどこに

 

核の危険性タブー視

 ▽「想定外」繰り返す

 東海村臨界事故は、住民に避難勧告や退避要請が出されるという、日本の原子力災害としては過去経験のない事態となった。政府の初動措置、情報伝達の遅れが際立ち、それを言い訳するかのように「想定外」という言葉が繰り返された。

 「戦後の日本では、天変地異、人知及ばざるところ、すべて『想定外』で片付けてきた。危機管理の観点からは実に恥ずべきことだ。臨界事故は、国の責任者の危機に対する想像力のなさをあらためて露呈した」

 「事故を起こしたジェー・シー・オー(JCO)の責任は確かに重い。危機管理以前の、基本的な安全管理の問題だ。だが、厳密な立ち入り検査さえしていない、監督官庁である科学技術庁の責任が最も重い。起こるべくして起きた事故と言いたい」

 ▽「むつ」の苦い体験

 佐々氏には、原子力行政の危機管理に関して忘れられない体験がある、という。原子力船「むつ」が、初航海で起こした放射線漏れ事故(一九七四年九月)である。当時は警察庁警備課長。出航阻止を叫ぶ漁業団体などの警備に当たっていた最中に、事故の一報が飛び込んだ。

 「放射線漏れを止めるために使ったのは、何と、おにぎり。原子炉の放射線遮へい板にあったすき間めがけて、中性子を吸収するホウ酸をまぶしたおにぎりを投げ付けた。粘土か何かないのかと聞いたら、想定外だから何の準備もしていない、という。まさに喜劇だ。科技庁の当時の説明は二転三転し、不手際で無責任な対応に本当に憤慨した」

 「科技庁の無責任な体質は、あの時から変わっていない。今回の臨界事故でも、二度と起こらないよう再発防止を、と謝る。危機管理に『Never Say Never(ネバー・セイ・ネバー)』との戒めがある。決して起こらないと決して言うな、という意味だ。彼らの姿勢をみると、嫌なことは起こらないんだ、と決め込んでいるようだ」

 「災害本番では、首相を頂点に、自衛隊、警察、消防、地方自治体などすべての力を集中させることが大切だ。人命救助、災害拡大の防止、避難誘導、緊急治療、緊急輸送の五つの原則を迅速に行う具体的なシステムを作らねばならない」

 臨界事故を受けて、原子力災害対策特別措置法が昨年十二月に成立した。深刻な原子力事故への対応の責任を、地元自治体から国に切り替えたのが最大の特徴である。このことは、原子力災害に対する危機意識の「空白」が、国にあったことを物語っている。佐々氏は、その背景に「被爆国ゆえに生まれた安全神話がある」と指摘する。

 ▽絶対的な安全ない

 「日本が初めて原子力と出合ったのは、大量殺りく兵器である原爆の投下。被爆国での原子力の安全管理は、ほかの国の何倍も気を使わなければならない。その一方で、強い核アレルギーは、役人の間に原子力の危険性に対する一種のタブーを生んだ。科技庁は、原子力に関して正確な知識を教えようとせず、恐怖を包み隠した。それが『絶対安全』を繰り返す神話へとつながった」

 「多くの国民は、原子力なしではやっていけないと思う半面、不安を抱いている。ならば、国民の不安を解消するのが政治の責任だ。事故の日の夜、(屋内退避を要請された半径十キロ圏内の住民)三十一万人が自宅で震えていた。今の国に、彼らを救える力はあるのか。『想定外』はもうやめて、絶対的な安全はあり得ないという現実を直視すべきだ」


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