1年1学級

朝日俊明さんの着衣 1学級の朝日俊明さんの着衣は、爆風と熱線で、下に着ていた白シャツまで両肩が引き裂け、制服の両そではちぎれた。可部町の自宅に向かって歩いているのを見つけた知人は、焼け残っていた定期券から身元を確認したという。父輝一さんが1968年に原爆資料館へ寄贈し、展示されている

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1年2学級

原爆資料館に、2学級の谷口勲さんの着衣(右)と、5学級の西本朝彦さんの着衣が並んで展示されている。2人は作業現場から西300メートルの土橋電停まで一緒にたどり着いたが、7日に相次いで死去した。父谷口順之助さんが65年、母西本マサエさんが83年に寄贈
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2学級の慶徳清さんをはじめ、学徒が腰に着けた小袋に必ず納めていた勅諭集(左)と戦陣訓。勅諭集は41年月8日の天皇の名による英米への開戦の詔書や、「国本二培ヒ国カヲ養ヒ以(もっ)テ国家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任…」と青少年学徒への勅語、軍人勅諭を収める。朝礼などで暗唱させられた=弟の進さんが保存
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2学級の北林哲夫さんが残した防空ずきん。北林さんは父の転任で7月、和歌山から転校したばかりだった。母はつゑさんが81年、原爆資料館に着衣やゲートルとともに寄贈
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  2学級の蔵田正さんの母初音さんは6日午後、作業現場跡で見た光景や、7日に自宅で息を引き取った息子とのやり取りをざら紙8枚の表裏にしたためていた。正さんのいとこ蔵田道夫さんが保存している。原文の一部を抜粋、紹介する。 死没者名簿1年2学級のページへ

2学級・蔵田正の母の手記

 橋(注・作業現場そばの新大橋)の東側あたりに二中のボタンをつけた子供が少数たふれてゐるのでおゝよその位置が分(わか)るけど、殆(ほとん)どはだかにてズボンのみつけし子多し。中にはバンドのみの子もゐる。口々に半死の中より水々と叫ぶ。土手から川を見ると、坂より水際に至る迄(まで)重なるやうに重傷の子供充(み)ち、水中のイカダにもたれて叫ぶのもあり、その悲惨なる様唯々(ただただ)胸のふさがる思ひのみ。

 水は上(あげ)潮で丁度(ちょうど)軍隊の船来り。「待つて居(お)れよ 助けてやるよ」といふ兵隊の声、救ひの神の声の如(ごと)く聞(きこ)ゆ。やがて船を岸につけ板を岸に渡す。「歩いてこれる者はやつてこいー」と呼べば、ひん死の子供等(ら)助かりたさの一心でよろよろと立上(たちあが)り前に進む。

 日の暮れかゝつて橋のたもとにて「正ちやん、正やー」と大声で呼べば、突然、「蔵田のおばさん」といふ声がする。誰と呼ぶ。大内(注・3学級の大内俊)と答へる。走り寄つて見ると、正(まさ)しく大内君。黒の服を着て、上着も下ズボンもそのまゝ、靴はなく足先の傷痛々し(略)

 橋を渡つたところに二中の生徒が倒れてゐる。胸の名を見れば、一学年二学級進藤とある。「進藤君」「ハイ」「しつかりしなさい」「水を下さい」「蔵田を知らない」「知りません」。僅(わず)かな希望を断たれた心持(もち)する。見渡すかぎりの焼土の中に立ち死傷者に囲まれて暮れかゝる西の空を見れば、心細さ腹の底より湧き上り思はず主人(注・応召中)の名を呼びぬ(略)

 電車通りをトボトボと帰途につく(略:正さんが戸板に乗せられて自宅へ運ばれているのに出会う)。顔一面に白い油薬を塗つてこれが正かと思ふ程にはれてゐる。学校で見た子供と同じ様に口唇もはれて上にめくれてゐる。

 近寄りざまに「母ちやんよ、分る」と言へば、「分るよ」とはつきりはつきり答へる。そして続けて母ちやん疎開しやうねと言ふ。あゝよしよし。暫(しばら)くして、「母ちやんどこへ疎開する」と問ふ。正のキズがなをる迄に母ちやんが考へて置いて疎開しやうね、そして母ちやんと一緒に暮らさうねと言へば満足さうにしてゐた。痛いか、んゝね、胸が苦しいか、んゝね、と唯暑い暑いと言ふ。(後略)