中国新聞社

99/11/16

ヒロシマの記録-遺影は語る  広島二中


死没者名簿 1年2学級


赤澤 昭三(13)
広島市下流川町(中区流川町)竹屋小8月6日動員先の佐 伯郡大竹町(大竹市)の三菱化成(現・三菱レイヨン)から捜しに向かった、広島工専(現・広島大)1年の兄洋一は「30年後にようやく原爆供養塔で遺骨が見つかり、墓に納めることができました」自宅で被爆した酒卸売業の父憲次(42)は9月5日、母久子(39)は同12日、祖母栄(66)は同9日に死去。祖父洋平(70)は自宅前で爆死。

穴光 隆司(12)
佐伯郡地御前村(廿日市市)不明8月7日遺骨は不明。大野陸軍病院(佐伯郡大野町)にトラックで運ばれる途中、「自分は地御前の穴光です。ここで降ろしてくれませんか」と言ったというのを、母祖代子が人づてに聞き7日、病院で捜し出す。弟の妻瑞恵は「自宅庭に植えていた桃を取りに戻って引き返すと、既にほかの遺体とともに火葬されていたそうです」。

石田 伸好 石田 伸好(12)
広島市西天満町天満小8月6日遺骨は不明。生前を知るいとこ正行は「叔父から7月末、手紙が届き、万一の場合は伸好を頼むとありました。叔父、叔母の三人家族は全滅で、遺骨のないまま法要を続けています」県内政課勤務の父学(41)と援護課の母イトヨ(39)も6日死去。

上野 佳春 上野 佳春(12)
安佐郡安村(安佐南区)広瀬小8月6日父士朗と母ハルコ が分かれて捜し、父が7日、広島市信用組合本部(西区横川町3丁目)内に並べてあった遺体の中から、名札で確認。妹幸子は「私は4人の子の母となりましたが、子ども2人を一度に亡くした両親の悲しみは計り知れません」県立第二高女(現・皆実高)2年の姉美智恵(13)は、雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業中に被爆し、宇品町の校舎内で母にみとられて10日死去。

惠木 英一 惠木 英一(13)
広島市段原町(南区)竹屋小8月6日父広市が捜すが、遺 骨は不明。母貞子が学校から渡された分骨を墓に納める。小学2年だった弟重行は「兄はあの日熱がありながら、『皆たいぎい(疲れている)のを我慢している』と出掛けたそうです。母は死ぬまで、引き止めておけばよかったと話していました」。

大可喜一 大可(おおか) 喜一(12)
広島市草津浜町(西区)草津小8月6日遺骨は不明。母ウ タ子と姉アサ子が作業現場跡で、エナメルで書かれた「大」の文字だけが読める弁当箱を見つけ、墓に納める。姉は「あの日に限って作業に出るのをぐずぐず言い、虫が知らせたんかね、と母はよく口にしていました」。

大倉 哲朗 大倉 哲朗(13)
広島市金屋町(南区)に下宿。実家は山県郡八重町(千代田町)八重小高等科8月6日遺骨は不明。93歳になる母シズコは 「一カ月以上も捜しましたが、兄も不明のため、広島市役所で、湯のみのようなものに入っていた小さな遺骨をいただきました」県立広島商業学校4年の兄昭三(17)は、爆心1キロの市役所そばの雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に出て爆死。

大坪 正則 大坪 正則(12)
広島市己斐町(西区)の祖父宅。実家は安佐郡小河内村(安佐北区)小河内小8月7日6日夜、「平良村(廿日市市)に収容されており、まだ生きている」との連絡を受け、父政登が歩いて向かうが、既に遺骨になっていた。弟美則は「7月下旬に体調を崩して一時帰宅していましたが、4日ごろ無理をして戻ったそうです。土曜日の午後は市内から歩いて帰り、父のふとんに寝ていた当時4歳の私を自分の寝間へ抱いて行ってくれていました」。

岡村 正明 岡村 正明(12)
広島市皆実町3丁目(南区)皆実小8月8日西高女(戦後 に廃校)4年の姉弘子が6日夕、爆心2・2キロの御幸橋で「正明?」と声を掛けるとうなずいた。弟を背負い、自宅から防空ごう、広島地方専売局(現・日本たばこ産業)へと運ぶ。「8日になると『僕はもう生きることはできない。お姉さんだけは防空ごうに入って。泣いたら、僕も草葉の陰で泣くようになるから、いつも笑ってほしい』と言い、最期に『天皇陛下万歳』を三唱して息が絶えました」(注・肖像画)専売局勤務の父品太郎(50)は町内から市役所方面の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。

奥窪 耕 奥窪 耕(13)
広島市千田町(中区)に下宿。実家は安芸郡倉橋島村(倉橋町)室尾小8月6日母ソメが捜したが、遺骨は不明。母は77年、 3学級の大内俊の実家だった唯信寺(中区舟入南4丁目)で、鼻の横にホクロがある長男とよく似た1年生が倒れていたのを突き止める。西高女4年だった姉文枝は「弟は5日、寮にいた私を訪ね、実家から持ち帰ったふかし芋を届けてくれました。留守をしていて会えなかったのが残念でなりません」。

興津 正和 興津 正和(12)
広島市白島北町(中区)白島小8月6日食糧確保のため栽培していたカボチャの人工交配をし、宿直明けで帰宅した父恒一に挙手の礼をして作業現場へ向かう。8日、父が現場跡で、大豆飯にカボチャを詰め、長男の名前を赤エナメルで裏に書いた弁当箱を見つける。1カ月後に、市から似島で火葬された遺骨と、お守り袋、二中の先輩から入学祝いに譲り受けたバックルを受け取る。父は68年に「原爆罹(り)災記録」をつづる。

沖元 衛 沖元 衛(まもる)(12)
広島市楠木町(西区)三篠小8月9日呉海軍工廠(しょう)にいた父栄人が6日、町内の避難先となっていた安佐郡安村上安(安佐南区)で長男衛の姿がないことから捜し、可部町(安佐北区)で遺骨を確認。



小野  淳 小野  淳(あつし)(13)
広島市舟入川口町(中区)舟入小8月7日全身にやけどを負いながら6日夕、自力で帰宅。家屋が倒壊していたため、広島高1年の兄典昭ら家族がそばの畑に敷いた畳に寝かせる。「明日は登校日で英語がある」「頑張ろう、頑張れ」などと言い、アルマイト の大缶に入った水を飲み干し、翌午前零時35分死去。二中OBの兄は「やりたいことはできず、父親にもなれなかった理不尽さを思うと、54年たとうと万感胸に迫ります」。

小原 義博 小原 義博(12)
広島市西蟹屋町(南区)中島小8月6日父岩男が6日夕から捜すが、遺骨は不明。小学5年だった妹玉江は「父は一人息子だった兄の二中進学を大変に喜び、自宅部屋に暗幕を張って友人を招いて祝ったのを覚えています。戦後は、二中慰霊碑の建立に努めていました」。

加戸 博 加戸 博(13)
広島市段原末広町(南区)比治山小8月7日父讓と兄健らが8日、陸軍兵器学校広島分教所の校庭で火葬するため並べてあった遺体の中から、見覚えのあるベルトを見つけ、あおむけにして名札で確認。戸板に乗せて自宅へ連れ帰る。兄の妻登志江は「夫は亡くなるまで『火葬される直前に捜し出すことができたのは肉親の情、きずなの深さだと思う』と、よく涙ながらに語っておりまし た」。

川村 公二 川村 公二(14)
広島市己斐町(西区)の叔父宅。実家は大阪市己斐小8月6日叔父が捜すが、遺骨は不明。江田島にあった海軍兵学校を目指して44年、一人親元を離れ、叔父夫婦宅に住んでいた。



川本 正彦 川本 正彦(12)
安佐郡日浦村(安佐北区)日浦小8月7日94歳になる父正之の手記によると、3学級の大内俊の実家である唯信寺(中区舟入南4丁目)に同級生4人でたどり着き、7日朝死去。救護所になった寺の門柱に張り出された名前と学校名を叔父が見つけて13日、母 八重子が遺骨を引き取る。

北林 哲夫 北林 哲夫(12) 遺品と資料
広島市翠町(南区)県立和歌山中(現・桐陰高)から転校8月7日87歳になる母はつゑは「宇品町の兵団にいると聞いて、夫と駆けつけるまで、『お父ちゃん、お母ちゃん』と叫び続けたそうです。最期に軍歌の『轟沈(ごうちん)』を歌いながら7日午後4 時20分、息を引き取りました」。父の陸軍船舶司令部への転任で7月19日、二中へ転校。現在の観音高に残る52年作成の「原爆生徒名簿」で記載漏れとなり、二中慰霊碑に名前は刻まれていない。

蔵田 正 蔵田 正(まさし)(12) 遺品と資料
広島市舟入南1丁目(中区)舟入小8月7日叔父が6日午後、新大橋西側の防空ごうの中で見つけ、連れ帰る。母初音が戦後間もなくしたためた手記から。「少し黙つてゐると母ちやん母ちやんと呼ぶ。一緒に寝ようやとも言ふ。母ちゃん帰らうといふ。かへつてゐるではないの、そして白い蚊帳(かや)にねてゐるではないのと言へば、上もながめて得心してゐる」「『正々々、母ちやんよ、わかる』と私は必死で叫んだ。『分るよ』と口もとをふるわせ ながら云(い)つたが、それが最後だつた。一寸(ちょっと)小鼻をひくひくさせたが、眠る様(よう)に息絶えた。十二年八ヶ月の短い生涯をとぢた」

慶徳 清 慶徳 清(13) 遺品と資料
安芸郡府中町府中小8月8日7日夕、広島赤十字病院から3学級の原田義信らとともに級友5、6人を乗せたトラックで自宅へ戻る。8日午前8時、死去。小学4年だった弟の進は「スルメを 焼いたような色のやけどが全身に広がっていました。目が見えず、苦しむ中、兄弟でよくした将棋を思い出したのか、私の名前を呼んで『王手!』と言いました」。

玄道 春三(しゅんそう)(13)
安佐郡可部町(安佐北区)可部小8月7日捜しに向かった姉イマエの長女森末恵美子は「亡き母は、後に運ばれていたことが分かった救護所を訪ねなかったことを悔やんでいました」と言う。

児玉 泰典 児玉 泰典(13)
広島市宇品町(南区)宇品小8月7日父往則が6日夜、本川橋上で名前を呼んだところ、手を上げ、「友達は流されたが、泳ぎに自信があったので川へ入ったり出たりして、待っていた」と涙を流して話したという。自宅で、ご飯に砂糖をかけて食べ、病死した母のことを話し、唱歌の歌声がか細くなった7日午前7時ごろ死去。

清水 康夫 清水 康夫(12)
二中寮。実家は広島市矢賀町(東区)大阪・府立堺中(現・三国丘高)から転校8月6日父勝治らが捜すが、遺骨は不明。父が陸軍船舶司令部に応召された5月、家族7人で広島に移る。小学2年だった妹洋子は「大阪で電気商を営んでいた父の元には戦後、かつての従業員たちが何度も帰って来てほしいと訪ねて来ました。しかし、両親とも息子への思いが断ち切れず、死ぬまで広島にとどまりました」。

進藤 英次(13)
広島市天神町(中区中島町)不明8月7日収容された安佐郡古市町(安佐南区)の嚶鳴小で死去小児科医で二中校医でもあった父哲郎(43)と母恒子(39)の遺骨は不明。

住村 芳和(13)
広島市観音本町(西区)観音小8月9日自力で帰宅したが、家族5人で住んでいた自宅が焼失していたため、南観音町の叔母宅へ移る。89歳になる母フミエは「最期に、担任の山本先生と級友の名前を全部言って亡くなりました」。足にやけどをした両親に代わって、見知らぬ女性が遺体を荷車に乗せて、観音小でだびに付す。

田中 忠 田中 忠(13)
広島市古田町古江(西区)陸軍偕行社付属済美小8月8日たどり着いた3学級の大内俊の自宅である舟入南3丁目の唯信寺で 8日朝、死去。二中3年の兄勝らが境内でだびに付す。姉菊恵は「弟が手を振り、大きな声で『行ってきます』と走って出た姿が忘 れられません。一緒に逃げた友達について唯信寺に向かったそうです」。

死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所出身小学校(当時は国民学校)死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)被爆死状況45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略)

谷上 勲 谷上(たにがみ) 勲(13)
佐伯郡玖波町(大竹市)小方小8月8日佐伯郡平良村(廿日市市)の平良小に収容されているとの知らせを受けた母秋与らが 7日夕、毛布を担架代わりにして連れ帰り、翌午後2時ごろ死去。小学5年だった弟孝司は「兄は電車道をひたすら歩き、五日市(佐伯区)付近でトラックに乗せてもらったそうです。担架に乗った兄は『おいっち、二、おいっち、二、前へ進め!』と掛け声を上げていました」応召中の兄義明(18)は爆心1キロの兵舎内で被爆し、22日死去。

谷口 勲 谷口 勲(13) 遺品と資料
広島市己斐町(西区)己斐小高等科8月7日父順之助と二 中4年の兄劼(かたし)が6日深夜、土橋電停前の防空ごうで、5学級の西本朝彦といるのを見つけ、父が西本を、兄が弟をそれぞれ 背負って帰る。兄は「背中から何度も下ろして確かめなくてはならないほど弟の顔かたちは変わっていました。空襲を避けるため7 日、自宅近くの山畑に連れて上がる途中の『だんだん近くなって来たね』が最期の言葉でした。西本君もわが家で亡くなりました」。

爲廣 進 爲廣 進(13)
安佐郡緑井村(安佐南区)緑井小8月6日父静一と母ハルミが「小網町付近にいた」との知らせを受けて7日、遺体を確認。 41年の日米開戦前に、両親と3人で米国から戻り、一学年遅れて二中に進んだという。おい忠範は「祖父母は原爆のことは全くと言っていいほど話したがりませんでした」。

豊嶋 長生 豊嶋 長生(たけお)(14)
佐伯郡五日市町(佐伯区)五日市小8月7日母敏子が6日、爆心2・2キロの己斐橋近くで、「お母さん、僕だよ」と呼んだ長男を見つける。中国・大連にいた汽船会社員の夫にあてた10日付封書から。「翌七日十四時『君が代』をはっきりと終わりまで歌い終わって安らかに息を引き取りました。全身大火傷と頭部打撲傷の傷の痛みは一言も申さず、只(ただ)最期まで大君の万万歳を願 ふた愛児長生は我が子乍(ながら)も頭の下がる思ひが致し…」

中谷 雪男 中谷 雪男(12)
安佐郡伴村伴(安佐南区)伴小8月7日父秀五郎が6日 昼、本川土手の大きな石に座っているのを見つけ、同行した知人らと、焼け残っていた戸板を担架代わりにして連れ返る。覚えたての英語や教師の名前、「自分は助かった」などのうわ言を繰り返して7日死去。86歳になる母トキヨに代わり、戦後生まれの弟秀行は「6日朝は父が兄の通学用の自転車をいつものように準備すると、いつになくぐずぐずし、出掛けるのをためらったそうです」。

中本 健治(13)
広島市段原日出町(南区)に下宿。実家は呉市警固屋呉三中(現・広高)から転校8月6日母文子が3人の幼子を連れて捜すが、遺骨は不明。87歳になる母は「船員の夫が徴用船勤務にとられたため、家のことを随分と心配してくれていました。寮にいた時は、呉が夜ごと空襲を受けるたび、ラジオの前に一人座っていたと、舎監の先生から聞きました。本当に優しい子でした」。

西本 義夫 西本 義夫(13)
広島市西観音町2丁目(西区)観音小8月6日母マサノが 8日ごろ、救護所となった江波小で四男義夫の名前が張り出してあるのを見つけるが、遺骨は不明。97歳になる母は今年の原爆忌、一緒に捜して歩いた五男に連れられて二中慰霊碑と、三男が運ばれた安芸郡坂町小屋浦に87年建立された慰霊碑に参った建築請負業の父周蔵(57)と崇徳中4年の兄章人(16)も建物疎開作業に動員され、 遺骨は不明。

信岡 俊夫 信岡 俊夫(12)
安佐郡古市町(安佐南区)嚶鳴小8月6日父哲雄と母トシ ノが7日、新大橋の西詰め、西地方町(中区土橋町)で息絶えていた二男を見つけ、持参した布にくるみ、はしごに乗せて連れ帰る。89歳になる母は「俊夫の頭のそばに、どなたかがビスケットを三つ供えてくださっていました。その方が健在であれば、俊夫の最期をお尋ねしたい気持ちでいっぱいです」。

八田 讓 八田 讓(13)
広島市国泰寺町(中区)不明8月6日佐伯郡友和村(佐伯町)から叔父日露紀らが捜しに行くが、遺骨は不明(注・肖像画)母を病気で亡くし、国泰寺町で二人暮らしをしていた父由一(50)の遺骨も不明。



平井 勉 平井 勉(12)
広島市草津東町(西区)の叔母宅。実家は安芸郡音戸町早瀬小8月6日父島吉らが6日より、船で捜しに出て、作業現場跡付近で塀の下にあった防空ずきんとカバンを見つけるが、遺骨は不明。一緒に捜した兄辰美は「国防色(カーキ色)のカバンと防空ずきんには、人の焼けたにおいが染みつき、出産を控えた母はそれを抱いて毎日泣きました。葬儀では遺品を遺骨代わりに焼きました」応召中の長男和男(19)は入院先の広島第二陸軍病院(中区基町)で爆死し、遺骨は不明。

平野 尚 平野 尚(13)
広島市牛田町(東区)牛田小8月10日遺骨は不明。母ユ リが9日、近所に住む同級生の母親から「似島でうちの子も平野君も死んだ」と聞き、似島で名札と肌着の切れ端を遺骨代わりに受け取る。姉幸枝は「肌着には、薬品の跡が残っており、治療をしてもらえたのだと思いました。原爆で亡くなった父と同じ10日を命日にしています」建設会社勤務の父静(56)は爆心1キロの鉄砲町で被爆し、息子の安否を気遣いながら自宅で死去。

松永 洋 松永 洋(ひろし)(12)
西観音町2丁目(西区)の二中東寮官舎中島小8月7日4年生らが寮に連れ帰り、トラックで北西約15キロの佐伯郡平良村(廿日市市)へ運ばれる。広島女専(現・広島女子大)から戻り、付き添った姉万亀子は「重傷の生徒7人は役場で、一人ずつ亡くなりました。弟は『お父さんは?山本先生(学級担任)は?お姉ちゃんありがとう』と言い残し、3番目でした」(注・肖像画)父高三(43)は教頭兼舎監長で、校舎の下敷きとなり、死去。

峯本 等 峯本 等(12)
安佐郡祗園町北下安(安佐南区)祗園小8月7日父哲一が 6日夕、横川駅にいると聞き、大声で名前を呼び続けると、返事をしたという。当時5歳の弟勉は「兄はやけどで皮がめくれ、両腕を上げて横になっていました。『川に入って歌を歌っていた』などと一晩中、母に話し、『もう寝るよ』と言って明け方そのまま亡くなったそうです」。

宮崎 恒雄 宮崎 恒雄(13)
広島市南段原町(南区)兵庫県西宮市・安居小8月6日本川の土手で9日、伯父が名前の書かれた血染めの靴を持ち帰り、遺骨は後に似島で見つかる。一緒に自宅を出て、動員先の東練兵場で被爆した二中2年の兄長生が3年後に書いた作文は「なあんだ1機かと皆は安堵(あんど)した。するとB29は二つ程(ほど)の白いものを落として、急に右旋回するではないか」「その物は静かに大きくなってきた(略)〝突然〟ああ、天は怒れるごとく真っ二つに割れ、強大な光は私の目を射た」とつづる。

宮地 伸和 宮地 伸和(12)
広島市中広本町(西区)天満小8月6日遺骨は不明。父克 巳は県庁で、母臣子は自宅で下敷きとなった。88歳になる母は言う。「けがをしてすぐには捜せず、後に天満橋の近くで倒れていたと聞きました。その年、市役所が地区ごとに焼いた遺骨を石炭箱に入れて配った中から、二中の生徒がたくさん運ばれた似島のものを持って郷里に帰りました。慰霊祭には死ぬまで参るつもりでしたが、夫は2年前に亡くなり、子どものいない私は一人ではよう行けず、線香代を学校に送っております」

宮原 信 宮原 信(まこと)(12)
安芸郡中野村(安芸区)東京・桃園第二小8月6日応召中の父の実家があった中野村に母たちと移る。遺骨は不明。6日は、作業に間に合わせるため、三菱重工業広島機械製作所へ動員中の広島市立中(現・基町高)4年の兄準と同じ一番列車で向かう。兄は「広島駅で乗り換えの市内電車を行列待ちしている時に警報が鳴り、『兄ちゃん、引き返そうか』と言いました。解除となって土橋電停で降りたきり、帰らぬ人となりました」。

三好 和久 三好 和久(やすひさ)(14)
佐伯郡厳島町(宮島町)厳島小47年1月26日当日は体調を 崩して、爆心1・9キロの二中校舎にいた。自力で帰宅し、同級生たちの被災を伝える。戦後は元気に通学していたが、突然倒れ、白血病で死去。義理の妹弘子は「父は宮島で古くから歯科医院を営み、兄が後を継ぐのを楽しみにしていました」。

向山 保彦 向山 保彦(12)
広島市南竹屋町(中区)千田小8月7日作業現場跡で7日 朝、捜しに来た顔見知りの4学級水谷浩道の姉に声を掛けた後に、救護兵によってトラックに乗せられる。後に遺骨で見つかる。自宅で母たちと下敷きになった広島市女4年の姉茂子は「それまでの作業でクギを踏み、足を引きずっていたので休むよう申しましたが、『休むのは嫌だ』と出掛けて行きました」と言う。

宗岡 一郎平 宗岡 一郎平(いちろへい)(12)
高田郡秋越村(安佐北区)の先輩宅に下宿。実家は賀茂郡志和堀村(東広島市)志和堀小8月6日母政子が6日夜から広島市 内で野宿をいとわずに捜すが、遺骨は不明。92歳になる母に代わり、小学5年だった弟洋二郎は「二中の口頭試験で、兄は『日本は米国に勝てるか』と聞かれ、『勝てます。物量作戦に、国民が一致協力して戦い抜く力を持っているからです』と、当時の考えを精いっぱい答えたそうです」。

保田 悦雄 保田 悦雄(13)
広島市牛田町南町区(東区)済美小8月7日八丁堀の広島 税務署の前で倒れているのを、二中職員の妻が7日朝見つけ、母篤子らが向かうが、到着時には亡くなっていた。兄義郎は「体の調子はよくなかったのに、今日は大豆の配給があると出て行ったと、復員後に両親から聞きました」。

山下 義照 山下 義照(12)
二中寮。実家は山県郡八重町(千代田町)八重東小8月6日 父芳美が捜し、約1週間後に、己斐小に安置されていた遺骨を見つけ、持ち帰る。シベリア抑留から49年に復員した兄武の妻チズヱは「二中の慰霊祭に一度も出たことのない夫が、亡くなった88年の夏、入院先からの電話で『今年は参列して供養してやろう』と言いました。生前は弟の死に触れるのは避けていました」。

脇坂 邦男 脇坂 邦男(12)
安佐郡可部町(安佐北区)広島市・神崎小8月7日自転車で出勤途中の横川町付近で被爆した父改次郎が、作業現場跡で叫ぶと、本川の中から返事をする。6日夕、戻った弟を出迎えた姉和恵は「意識はしっかりしており、『お姉ちゃん、もうけんかをしても負けてやるから、井戸から冷たい水をくんできてくれ』と頼みました。一生忘れられない言葉です」。形見となった制服は87年に88歳で亡くなった父の胸に抱かせてだびに付す。

 
2学級詳細不明

  片山 虔児
  川上 一郎
  桑原  繁
  住田 丈夫
  高田 靖武
  山崎 時男
  山本 晋二


1学級 3学級  4学級 5学級 6学級  2年から5年・教職員 新たに12人を確認