赤澤 昭三(13)
広島市下流川町(中区流川町)▼竹屋小▼8月6日▼動員先の佐
伯郡大竹町(大竹市)の三菱化成(現・三菱レイヨン)から捜しに向かった、広島工専(現・広島大)1年の兄洋一は「30年後にようやく原爆供養塔で遺骨が見つかり、墓に納めることができました」▼自宅で被爆した酒卸売業の父憲次(42)は9月5日、母久子(39)は同12日、祖母栄(66)は同9日に死去。祖父洋平(70)は自宅前で爆死。
穴光 隆司(12)
佐伯郡地御前村(廿日市市)▼不明▼8月7日▼遺骨は不明。大野陸軍病院(佐伯郡大野町)にトラックで運ばれる途中、「自分は地御前の穴光です。ここで降ろしてくれませんか」と言ったというのを、母祖代子が人づてに聞き7日、病院で捜し出す。弟の妻瑞恵は「自宅庭に植えていた桃を取りに戻って引き返すと、既にほかの遺体とともに火葬されていたそうです」。
石田 伸好(12)
広島市西天満町▼天満小▼8月6日▼遺骨は不明。生前を知るいとこ正行は「叔父から7月末、手紙が届き、万一の場合は伸好を頼むとありました。叔父、叔母の三人家族は全滅で、遺骨のないまま法要を続けています」▼県内政課勤務の父学(41)と援護課の母イトヨ(39)も6日死去。
上野 佳春(12)
安佐郡安村(安佐南区)▼広瀬小▼8月6日▼父士朗と母ハルコ
が分かれて捜し、父が7日、広島市信用組合本部(西区横川町3丁目)内に並べてあった遺体の中から、名札で確認。妹幸子は「私は4人の子の母となりましたが、子ども2人を一度に亡くした両親の悲しみは計り知れません」▼県立第二高女(現・皆実高)2年の姉美智恵(13)は、雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業中に被爆し、宇品町の校舎内で母にみとられて10日死去。
惠木 英一(13)
広島市段原町(南区)▼竹屋小▼8月6日▼父広市が捜すが、遺
骨は不明。母貞子が学校から渡された分骨を墓に納める。小学2年だった弟重行は「兄はあの日熱がありながら、『皆たいぎい(疲れている)のを我慢している』と出掛けたそうです。母は死ぬまで、引き止めておけばよかったと話していました」。
大可(おおか) 喜一(12)
広島市草津浜町(西区)▼草津小▼8月6日▼遺骨は不明。母ウ
タ子と姉アサ子が作業現場跡で、エナメルで書かれた「大」の文字だけが読める弁当箱を見つけ、墓に納める。姉は「あの日に限って作業に出るのをぐずぐず言い、虫が知らせたんかね、と母はよく口にしていました」。
大倉 哲朗(13)
広島市金屋町(南区)に下宿。実家は山県郡八重町(千代田町)▼八重小高等科▼8月6日▼遺骨は不明。93歳になる母シズコは
「一カ月以上も捜しましたが、兄も不明のため、広島市役所で、湯のみのようなものに入っていた小さな遺骨をいただきました」▼県立広島商業学校4年の兄昭三(17)は、爆心1キロの市役所そばの雑魚場町(中区国泰寺町)の建物疎開作業に出て爆死。
大坪 正則(12)
広島市己斐町(西区)の祖父宅。実家は安佐郡小河内村(安佐北区)▼小河内小▼8月7日▼6日夜、「平良村(廿日市市)に収容されており、まだ生きている」との連絡を受け、父政登が歩いて向かうが、既に遺骨になっていた。弟美則は「7月下旬に体調を崩して一時帰宅していましたが、4日ごろ無理をして戻ったそうです。土曜日の午後は市内から歩いて帰り、父のふとんに寝ていた当時4歳の私を自分の寝間へ抱いて行ってくれていました」。
岡村 正明(12)
広島市皆実町3丁目(南区)▼皆実小▼8月8日▼西高女(戦後
に廃校)4年の姉弘子が6日夕、爆心2・2キロの御幸橋で「正明?」と声を掛けるとうなずいた。弟を背負い、自宅から防空ごう、広島地方専売局(現・日本たばこ産業)へと運ぶ。「8日になると『僕はもう生きることはできない。お姉さんだけは防空ごうに入って。泣いたら、僕も草葉の陰で泣くようになるから、いつも笑ってほしい』と言い、最期に『天皇陛下万歳』を三唱して息が絶えました」(注・肖像画)▼専売局勤務の父品太郎(50)は町内から市役所方面の建物疎開作業に出て、遺骨は不明。
奥窪 耕(13)
広島市千田町(中区)に下宿。実家は安芸郡倉橋島村(倉橋町)▼室尾小▼8月6日▼母ソメが捜したが、遺骨は不明。母は77年、
3学級の大内俊の実家だった唯信寺(中区舟入南4丁目)で、鼻の横にホクロがある長男とよく似た1年生が倒れていたのを突き止める。西高女4年だった姉文枝は「弟は5日、寮にいた私を訪ね、実家から持ち帰ったふかし芋を届けてくれました。留守をしていて会えなかったのが残念でなりません」。
興津 正和(12)
広島市白島北町(中区)▼白島小▼8月6日▼食糧確保のため栽培していたカボチャの人工交配をし、宿直明けで帰宅した父恒一に挙手の礼をして作業現場へ向かう。8日、父が現場跡で、大豆飯にカボチャを詰め、長男の名前を赤エナメルで裏に書いた弁当箱を見つける。1カ月後に、市から似島で火葬された遺骨と、お守り袋、二中の先輩から入学祝いに譲り受けたバックルを受け取る。父は68年に「原爆罹(り)災記録」をつづる。
沖元 衛(まもる)(12)
広島市楠木町(西区)▼三篠小▼8月9日▼呉海軍工廠(しょう)にいた父栄人が6日、町内の避難先となっていた安佐郡安村上安(安佐南区)で長男衛の姿がないことから捜し、可部町(安佐北区)で遺骨を確認。
小野 淳(あつし)(13)
広島市舟入川口町(中区)▼舟入小▼8月7日▼全身にやけどを負いながら6日夕、自力で帰宅。家屋が倒壊していたため、広島高1年の兄典昭ら家族がそばの畑に敷いた畳に寝かせる。「明日は登校日で英語がある」「頑張ろう、頑張れ」などと言い、アルマイト
の大缶に入った水を飲み干し、翌午前零時35分死去。二中OBの兄は「やりたいことはできず、父親にもなれなかった理不尽さを思うと、54年たとうと万感胸に迫ります」。
小原 義博(12)
広島市西蟹屋町(南区)▼中島小▼8月6日▼父岩男が6日夕から捜すが、遺骨は不明。小学5年だった妹玉江は「父は一人息子だった兄の二中進学を大変に喜び、自宅部屋に暗幕を張って友人を招いて祝ったのを覚えています。戦後は、二中慰霊碑の建立に努めていました」。
加戸 博(13)
広島市段原末広町(南区)▼比治山小▼8月7日▼父讓と兄健らが8日、陸軍兵器学校広島分教所の校庭で火葬するため並べてあった遺体の中から、見覚えのあるベルトを見つけ、あおむけにして名札で確認。戸板に乗せて自宅へ連れ帰る。兄の妻登志江は「夫は亡くなるまで『火葬される直前に捜し出すことができたのは肉親の情、きずなの深さだと思う』と、よく涙ながらに語っておりまし
た」。
川村 公二(14)
広島市己斐町(西区)の叔父宅。実家は大阪市▼己斐小▼8月6日▼叔父が捜すが、遺骨は不明。江田島にあった海軍兵学校を目指して44年、一人親元を離れ、叔父夫婦宅に住んでいた。
川本 正彦(12)
安佐郡日浦村(安佐北区)▼日浦小▼8月7日▼94歳になる父正之の手記によると、3学級の大内俊の実家である唯信寺(中区舟入南4丁目)に同級生4人でたどり着き、7日朝死去。救護所になった寺の門柱に張り出された名前と学校名を叔父が見つけて13日、母
八重子が遺骨を引き取る。
北林 哲夫(12) 遺品と資料
広島市翠町(南区)▼県立和歌山中(現・桐陰高)から転校▼8月7日▼87歳になる母はつゑは「宇品町の兵団にいると聞いて、夫と駆けつけるまで、『お父ちゃん、お母ちゃん』と叫び続けたそうです。最期に軍歌の『轟沈(ごうちん)』を歌いながら7日午後4
時20分、息を引き取りました」。父の陸軍船舶司令部への転任で7月19日、二中へ転校。現在の観音高に残る52年作成の「原爆生徒名簿」で記載漏れとなり、二中慰霊碑に名前は刻まれていない。
蔵田 正(まさし)(12) 遺品と資料
広島市舟入南1丁目(中区)▼舟入小▼8月7日▼叔父が6日午後、新大橋西側の防空ごうの中で見つけ、連れ帰る。母初音が戦後間もなくしたためた手記から。「少し黙つてゐると母ちやん母ちやんと呼ぶ。一緒に寝ようやとも言ふ。母ちゃん帰らうといふ。かへつてゐるではないの、そして白い蚊帳(かや)にねてゐるではないのと言へば、上もながめて得心してゐる」「『正々々、母ちやんよ、わかる』と私は必死で叫んだ。『分るよ』と口もとをふるわせ
ながら云(い)つたが、それが最後だつた。一寸(ちょっと)小鼻をひくひくさせたが、眠る様(よう)に息絶えた。十二年八ヶ月の短い生涯をとぢた」
慶徳 清(13) 遺品と資料
安芸郡府中町▼府中小▼8月8日▼7日夕、広島赤十字病院から3学級の原田義信らとともに級友5、6人を乗せたトラックで自宅へ戻る。8日午前8時、死去。小学4年だった弟の進は「スルメを
焼いたような色のやけどが全身に広がっていました。目が見えず、苦しむ中、兄弟でよくした将棋を思い出したのか、私の名前を呼んで『王手!』と言いました」。
玄道 春三(しゅんそう)(13)
安佐郡可部町(安佐北区)▼可部小▼8月7日▼捜しに向かった姉イマエの長女森末恵美子は「亡き母は、後に運ばれていたことが分かった救護所を訪ねなかったことを悔やんでいました」と言う。
児玉 泰典(13)
広島市宇品町(南区)▼宇品小▼8月7日▼父往則が6日夜、本川橋上で名前を呼んだところ、手を上げ、「友達は流されたが、泳ぎに自信があったので川へ入ったり出たりして、待っていた」と涙を流して話したという。自宅で、ご飯に砂糖をかけて食べ、病死した母のことを話し、唱歌の歌声がか細くなった7日午前7時ごろ死去。
清水 康夫(12)
二中寮。実家は広島市矢賀町(東区)▼大阪・府立堺中(現・三国丘高)から転校▼8月6日▼父勝治らが捜すが、遺骨は不明。父が陸軍船舶司令部に応召された5月、家族7人で広島に移る。小学2年だった妹洋子は「大阪で電気商を営んでいた父の元には戦後、かつての従業員たちが何度も帰って来てほしいと訪ねて来ました。しかし、両親とも息子への思いが断ち切れず、死ぬまで広島にとどまりました」。
進藤 英次(13)
広島市天神町(中区中島町)▼不明▼8月7日▼収容された安佐郡古市町(安佐南区)の嚶鳴小で死去▼小児科医で二中校医でもあった父哲郎(43)と母恒子(39)の遺骨は不明。
住村 芳和(13)
広島市観音本町(西区)▼観音小▼8月9日▼自力で帰宅したが、家族5人で住んでいた自宅が焼失していたため、南観音町の叔母宅へ移る。89歳になる母フミエは「最期に、担任の山本先生と級友の名前を全部言って亡くなりました」。足にやけどをした両親に代わって、見知らぬ女性が遺体を荷車に乗せて、観音小でだびに付す。
田中 忠(13)
広島市古田町古江(西区)▼陸軍偕行社付属済美小▼8月8日▼たどり着いた3学級の大内俊の自宅である舟入南3丁目の唯信寺で
8日朝、死去。二中3年の兄勝らが境内でだびに付す。姉菊恵は「弟が手を振り、大きな声で『行ってきます』と走って出た姿が忘
れられません。一緒に逃げた友達について唯信寺に向かったそうです」。
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死没者の氏名(満年齢)
1945年当時の住所▼出身小学校(当時は国民学校)▼死没日(実際の死没日が特定できない人もいるが、その場合は戸籍記載の死没日)▼被爆死状況▼45年末までに原爆で亡くなった家族=いずれも肉親遺族の証言と提供の記録、資料に基づく。年数は西暦。(敬称略) |
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