中国新聞



1年3学級

作業現場跡近くの防空ごうで見つかった3学級の船倉浩太郎さんの時間割(上)と定期券(左)、身分証明書。時間割には週に数学が5回、英語が4回、国文(文法を含む)・物象・教練が3回、歴史、生物が2回などとある。しかし、5月下旬から断続的に始まった動員作業や、空襲警報発令のたびの休校で、授業は満足に受けられなかった=母澄恵さんが保存
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3学級の本多正昭さんが着けていた学徒隊の標識。44年8月に公布された学徒勤労令に基づく「動員細則」は「出陣学徒ハ学校報国隊員タルノ標識ヲ附(ふ)スルコト」と定めていた=妹の由紀子さんが保存
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 3学級の岩本耕造さんが寮時代に佐伯郡浅原村(佐伯町)の家族にあてた手紙。缶詰めのラベルの裏に書いた妹あての文面を原文のまま紹介する。今も大切に保存する妹由子さんは、当時は国民学校(小学校)4年だった。 死没者名簿1年3学級のページへ
3学級・岩本構造の手紙

 由子ヘ
由子、元気デ勉強シテイマスカ。
私モ元気デ勉強シテ、オリマス。
廣島ヘモ、ヨク、敵ガクルヨ。
由子モ、ヨウジンシテ勉強シ、オ母サンノ、ユウコトヲ、ヨクキキ、ソウシテ、オ母サンノ、心ヲ、ヤスメテアゲヨ。オ母サンハ、戦争ニ、カツタメニ、ハタライテノデ、オマヘガ、スイジオセヨ。
兄サンモ、元気デ勉強スルカラ、アンシンセヨ。テガミヲクダサイ
  「サヤウナラ」
                                 耕造より



1年4学級

作業現場跡で見つかった4学級の昆野直文さんのカバンと弁当箱。布製のかばんは、母マスコさんが着物の帯をほどき、手ぬぐいと縫い合わせて作った=姉勝美さんが保存
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原爆投下前日の8月5日(日曜日)、寮生だった4学級の佐原正昭さんが母房子さんに書いたはがき(左)と、国民学校(小学校)時代の恩師にあてた封書。いずれも未投かんに終わった
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母あてのはがき原文。

 其(その)後おかわりありませんか。僕はあひかわらず元気で勉強してゐますから御安心下さい。もう8月となり、大変あつくなりましたが、僕は、病気1つしません。この日曜に帰らうと思つたのですが帰られませんでした。夏休みがあるかわからないのであつたら帰ります。なかつたら次の日曜に帰ります。では、御身(おんみ)を大切に さやうなら
当時の男子中学生が愛読していた月刊誌「海軍」と「少年倶楽部」(現在の講談社発行)。45年4月号の「海軍」は大竹海軍潜水学校の訓練ぶりを写真を交えて紹介している=4学級佐原正昭さんの遺品から
4学級の佐原正昭さんの父政夫さんが、焼け残ったニ中東寮で見つけ、持ち帰った教科書や参考書。江田島の海軍兵学校への進学を希望していた=弟正和さんが保存
4学級の高橋成幸さんの書。週1回、習字の授業があった。両親が遺品として残し、死没後は、兄、信行さんが家族のアルバムと一緒に保存している
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