タイトル小
25. 東西環流
ロサ・オドラータが香る中を、ナシ族の女性が歩む。
中国雲南省。
バラはそのふるさとから世界へ広がり、
人々とともに歴史を刻み、
あまたの花を咲かせた

*** 「壁」を超え美は咲いた ***

 つい最近まで、世界史のキーワードは「東西」だったと思う。

 地球は丸いはずなのに、私たちは東とか西とかのレッテルを張った。西洋の国々が「東」の異国を交易相手や植民地にしようと競ったのが近代とすれば、東洋に住む私たちが「西」にあこがれつつ反発もしたのが現代だろうか。東と西は対立と融和、戦争と平和を繰り返した。そして「南北」という新たなキーワードも生んだ前世紀の終わり、欧州で東西を隔てた壁は消えた。

長江(揚子江)にピンクのノイバラが咲く。悠久の流れを見守ってきたのだろう(中国湖北省宜昌市)

 バラの世界では、圧倒的に「東」が優勢であろう。原産地は中国から西アジアに至るヒマラヤ周辺とされる。そして、年に一度しか咲かなかった「西」のバラに四季咲きの性質をもたらしたのは中国産のコウシンバラ。年中咲き誇るバラを土台から支えたのは日本産のノイバラやハマナスである。

 私たちの「ばらの来た道」をたどる旅は、そんな東と西を行きつ戻りつした。山や川のほとりで素朴に咲くルーツのバラを探し、「花の女王」と言われる華麗で妖艶(ようえん)な現代の花姿を追った。

欧州に渡り、寒さに耐えるバラを生んだハマナス。浜辺で真っ赤な実を付けた(北海道石狩市)

 「バラのルーツ? 欧州に決まっているでしょ。中国でも日本でもないよ」

 その中国でのこと。自信たっぷりに言い切ったのは雲南省のバラ栽培業者である。大学で園芸を学び、切りバラを日本や香港に輸出している彼が、バラの原産地や東西交流で改良を重ねた歴史を知らぬはずはなかろう。あえて彼がそう断言したのは、ルーツを隠し、欧州のイメージを広めたほうが、販売戦略上、好都合だからか。

 だからと言って、こちらに非難する資格もなさそうだ。私たちは、車をチャーターしては道路がでこぼこだと不満をもらし、レストランに入ってはビールが冷えていないとつぶやきながら、そうしてバラのルーツを探して大陸を飛び回った。かの地の人たちから見ればさぞかし、西洋気取り、金満ニッポンのおごりの象徴に違いなかったのだから。

 同じアジアの中でさえ、少し時代の変化のテンポがずれただけで貧富の差が生まれ、歴史と文化、人々の生活習慣の違いが互いを惑わせる。悠久の歴史を考えれば、経済発展のスピードの違いなど、わずかの差でしかあるまいに。

 「東西」に象徴される国境や体制の壁はそもそも、私たちの意識のなかにこそあるのだろう。

 バラは、超越していた。東も西もなかった。野生は野生なりに自らのルーツを守って現代を生き、栽培バラは東西の文化をないまぜにし、いいとこ取りして美を競う。人々の好みにおもねり、過度に手を加えすぎた「改良」もあったろう。無駄や愚かな行為を積み重ねてきたのも、私たちの歴史。バラはいつも、そのそばに咲き、穏やかな香りをはなってきた。

 ばらの来た道。私たちがたどった道と重なる。その道は、東西が交わり結ぶ明日へと延びる。

(江種則貴)

*** 高山に北極に一輪追う ***

 視力が良くなった気がした。毎日、車の窓から遠く、近く、緑の山を見つめ続けていたためだろうか。

満開のバラに囲まれ、本を手にしたまま気持ち良さそうに眠るお年寄り(ドイツエルトビレ)

 広大な中国大陸に、野生のバラを探した。長江(揚子江)をせき止める三峡ダムの大工事が進む湖北省宣昌市から始まり、万年雪が眼前に迫る標高3600メートルの雲南省中甸へ。シルクロードの新疆ウイグル自治区ウルムチへと飛び、さらに西安から北京。

 なかでもウルムチの黄バラ、ロサ・ペルシカは特別だった。ゴミ捨て場の近く、歩けばほこりが舞い、はいつくばって写真を撮る気も失せるような荒れ地。ホテルのバスタオルを借りて来た。「何でこんな所に」と声も出た。が、しかし、この図太さがあればこそ生き延びてきたのか。そう思うといとしさがこみ上げた。

 バラの取材は昨年6月、ブルガリアでローズオイルを採取する村を訪れたのが始まり。続いてドイツ、オランダ、フランス、イギリス、スウェーデンへ。

 どの地でも、バラは美しかった。人々に愛されていた。

バラの新品種が並び、6日間で20万人が訪れたハンプトンコートフラワーショー(英国ロンドン)

愛の花バラを手渡し、キス。レストランで婚約13年目の記念日を祝っていた夫婦(ブルガリア・ソフィア)
世界で最も名高いバラ園の一つ、バガテル公園の見事なつるバラ(フランス・パリ)

 思い出深いのはスウェーデン。北極圏のバラが見たくて訪ねた。やりくりしての日程は、3日間だけ。

 最終日、北極圏まであと200キロの町コーゲにたどり着いたが見当たらない。肌寒い。小雨が降り出した。あきらめるしかないか。

 その日の朝食、ホテルで女の子がおいしそうにバラのスープを飲んでいたのを思い出した。お土産に買って帰ろう。たまたま立ち寄ったスーパーに、運命の出会いは待っていた。

 「50年前、おじいさんが植えた野生種のバラがあるはず。毎年、このころ咲くの」。ちょうどバカンスで訪れていた園芸雑誌の女性編集長が、別荘の裏手のシラカバ林に案内してくれたのだ。

 緑濃い茂みの中で、薄いピンクのバラが揺れる。「北極バラだ」。感動で手ぶれしないか心配しながら、息を詰め、シャッターを切り続けた。

(大村 博)

*** 世界を旅した「日系の花」 ***

― 出会いの物語は未来へ ―

畑のわきに咲くノイバラ。日本や中国に自生し、農作業に季節を告げる(中国雲南省大理市郊外)

 ドイツ生まれのバラが、福山市の南小学校の中庭にある。1993年に誕生した「ロザリオ」。丈夫な品種なのだろう。2月に届き、植えたばかりなのに、もうピンクの花をつけた。姿こそ派手だが、実は、遠い昔に海を渡った「日系の花」である。

 一枝に、甘い香りを放つ大輪が五つ。花数の多さは、日本に自生するノイバラを先祖に持つ証拠だ。19世紀、シーボルトたちプラントハンターは素朴で丈夫な野バラを欧州へ運び、品種改良に役立てた。ロザリオは、父祖の地に里帰りしてきたのである。

ドイツから贈られ、福山市南小学校の中庭に咲いたバラ「ロザリオ」とばら祭でにぎわう福山市緑町公園のばら花壇(手前)。ばら公園も奥に見える

 バラの花姿に、人々の出会いと別れの歴史が重なって見える。

 バラは紀元前2000年ごろ、メソポタミアで歴史に登場する。交易や戦争などを通じ、さまざまな品種が出合い、交じり合って、姿を変えてきた。西アジアのバラを欧州にもたらしたのは十字軍の遠征。そして人工授粉により品種改良に革命を起こしたのは、ナポレオン一世の妻ジョゼフィーヌだった。

 改良に次ぐ改良を加え、バラの品種は今、ざっと2万種余り。さらに、地上界にない香りを得ようと宇宙船内でバラを栽培し、遺伝子操作で青バラづくりに挑む。ひたすら新たな物を生み出そうとしてきた人類の性(さが)なのだろうか。

 バラは美しき物の代名詞でもあり続けた。ふくよかな香りにひかれたシェークスピア、かれんな花姿にあこがれたゴッホ…。魅せられた芸術家は数え切れない。

 南小学校で花を咲かせたロザリオは、ドイツの「ばらのまち」ザンガーハウゼン市のバラである。南小が昨年末、「ローズふくやま」を贈ったお返しに届いた。この春オープンした緑町公園ばら花壇にも2本植えてある。バラ苗の交換を機に小学生同士の文通も始まり、子どもたちは訪問し合う日を夢見ている。

 ノイバラが海を渡って優に1世紀余り。時を超え、バラが取り持つ新たな出会いの物語が紡ぎ出されようとしている。

(杉本喜信)

「ばらの来た道」は今回で終わります。ご愛読ありがとうございました。

2001.7.1

BACK INDEX NEXT