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2002/09/12
30回目の平和教育シンポ(15・16日)を前に
 全国原爆被爆教職員の会会長 石田 明氏に聞く

被爆体験の意義 再確認を  

 「ヒロシマ・ナガサキを忘れるな」と、被爆教師らが中心になり、厳しい米ソ冷戦下に始まった全国平和教育シンポジウムが今年で三十回を迎える。被爆体験の風化が叫ばれて久しい。政府首脳からは非核三原則の見直し発言が飛び出し、米国による小型核兵器の使用もささやかれる。遠からず被爆者がいなくなる現実を前に、若い世代への平和教育をどう継承するのか。平和教育シンポを中心になって始め、担ってきた全国原爆被爆教職員の会会長の石田明氏(74)に聞いた。 (編集委員・田城明)  

  原点 わが身教材、子どもに語る

 ―最初に平和教育に取り組んできた石田さんの「原点」である被爆体験について聞かせてください。

 原爆が投下された一九四五年八月六日の朝、私は七歳年上の兄と一緒に広島駅から己斐駅(西広島駅)へ向かう市電に乗っていた。四四年五月に十六歳で少年航空兵に志願した私の武運長久を祈願するため、宮島へ向かう途中だった。満員の電車がちょうど福屋百貨店(中区八丁堀)前の停留所に到着した時、原爆が炸裂(さくれつ)した。

 瞬間真っ暗闇で、気がついた時は即死者の下敷きになっていた。軍服は血に染まっていた。折り重なった死体をかき分けて電車の外へ出た。幸い電車の真ん中にいた私も兄も、外傷はほとんどなかった。しかし、火の手から逃れ生き地獄の惨状を目の当たりにしながら、安佐郡狩小川村(現安佐北区狩留家町)の実家へ帰る途中、芸備線の戸坂駅までたどりついて倒れた。激しい嘔吐(おうと)のためだ。元気だった兄はそのまま家に帰ったが、私は一晩民家で介護を受け、翌日戻った。

 ―急性放射線障害が現れたのですね。

 そうだ。むろん、当時はそんな知識などなかった。やがて兄も私も髪の毛がすっかり抜け、元気に見えた兄は九月二日に吐血して死んだ。私も間もなく意識不明に陥った。意識が戻ったのは翌年の二月。だれもが死ぬと思っていた自分は生き返ったが、看病に疲れた母親は四八年、四十七歳で死んだ。私がいま生きているのは、母の懸命の看護があったからだと思っている。

 ―でも、大量の放射線を浴びた体は原爆白内障、喉頭(こうとう)がん、そして今回の皮膚がんと、放射線の影響を受け続けているように見えます。

 確かにそうだ。が、考えてみれば広島から意識的に取り組んだ平和教育の出発点は、ケロイドなど原爆にのろわれた被爆教師が、わが身を教材に子どもたちに体験を語るところから始まった。

  高揚期 「人類生存」へ取り組み拡大

被爆教師が中心になって建立した「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」の前では、毎年8月、子どもたちと先生らが参列して慰霊祭が開かれる(2002年8月4日、平和記念公園南側緑地帯)

 ―広島県原爆被爆教師の会(現県原爆被爆教職員の会)が誕生したのは一九六九年です。

 それ以前は原爆投下の背景や被爆の惨状について詳しく記述した教科書があった。中学社会科には「原子爆弾の出現によって、戦争は最大の罪悪となった」とか、「現代の戦争は人類の自殺を引き起こしかねない危険がある。だから戦争賛美の言葉は、人類破滅を招こうとする悪魔の声である」といった内容だ。教師が意識して語らなくても、教科書に感動的に書かれていた。私も涙して何度も読み返したものだ。

 ―核時代における被爆体験の意味を、かつては文部省(現文部科学省)も人類史の中できちっと位置づけていたのですね。

 その通りだ。ところが、こうした記述が消え、原爆の惨禍を知らなくなった子どもたちの中から、顔にケロイドの残る女性教諭に「オニババだ」といったむごい言葉が投げつけられたりするようになった。隠したくても隠せない先生は思いつめて子どもたちに話し掛けた。「じっと、私の顔を見てください。この顔は原爆の火に焼かれた傷あとです」と。体操のできない先生は「足の皮膚がくっついて動かすことができない」と運動場で、子どもたちに泣いて謝った。

 まず被爆教師が力を合わせないと、ヒロシマ・ナガサキの体験も忘れ去られるし、自分たちの命や健康も守れない。こうした背景から被爆教師の会が生まれた。

 ―そこからさらに積極的な「平和教育の再興を」と、七二年に小中高の先生だけでなく、大学の研究者らも加わって広島平和教育研究所が設立され、七三年の第一回全国平和教育シンポジウムへとつながりました。

 私たちは平和教育というものを「人類生存のための教育」と考えていた。だから被爆地広島、長崎だけの取り組みに終わらせず、全国の教師たちに広めようとした。広島女学院中学(中区上幟町)で開いた初のシンポには、沖縄や東京などを含め教師や研究者らが三百人近く参加した。そこで原爆や戦争体験をどう教え、平和を尊ぶ心をどう育てるか、具体的な実践に基づいて体験を発表し、意見を交わした。

 さらに平和教育の内容を各教科で深めたり、全国に根付かせるために、日本平和教育研究協議会を設立した。スウェーデンのストックホルム平和研究所など国際平和機関との交流も重視した。

 ―そのシンポは回を重ねるごとに広がり、日本を含め世界的に草の根反核運動が盛り上がった八〇年代初めには、学生や市民を含め千人を超す参加者がいました。

 そう。実践発表も被爆体験の継承だけでなく、各地の戦災状況の掘り起こしや、アジア諸国への加害の問題、発展途上国の貧困など南北問題もテーマに上がってきた。全国への平和教育の広がりは、広島への修学旅行生の増加にもつながった。

  課題と展望 市民や教師、連携が必要

 ―しかし、こうした広がりも米ソ冷戦終結を迎えた九〇年代初頭あたりから、十年余りで急速に勢いを失いつつあります。何が原因だと思いますか。

 大きな要素として三点を挙げることができる。一つは学校現場から被爆教師がいなくなり、若い先生たちの問題意識が薄れたこと。二つ目は、自らの反省も込めていうのだが、平和教育を支えてきた日教組(日本教職員組合)が分裂し複雑化することで、力がそがれていったこと。研究機関である平和教育研究所は何とか統一を保っているが、少なからず影響を受けているのは事実だ。

 三つ目は教科書から被爆の実相を伝える記述が消えただけでなく、文部科学省の意を受けた各県教委の平和教育に対する現場への締め付けが強まっている。特に広島では、君が代斉唱や国旗掲揚をめぐる「是正指導」を契機に、原爆についてどう教えるかについて具体的に触れた県教委の「平和教育」に関する指針が二年前から消え、文部科学省の「学習指導要領に則(のっと)って実施すること」という極めて抽象的なものになってしまった。そのために校長以下、現場の教師は戸惑い、随分委縮している。

 ―教壇に立つ被爆教師はもとより、やがて被爆者そのものがいなくなります。現状のままでは被爆県の足元の平和教育の存続さえ危ぶまれますね。現状を打開するにはどうすればいいと考えますか。

 いま一度、人類史の中でヒロシマ・ナガサキの体験の意義をかみしめ、「危険な核時代に生きる人類に責任を負う」との立場から平和教育を再構築しなければならない。そのためには被爆者や市民、教師、行政、そして大学などの研究機関が幅広く協力し合わなければならない。

 ―平和教育は教師だけの問題ではないと…。

 その通りだ。これまでは教師だけの枠内に幅を狭めすぎていた。最近は産官学が一緒になって新製品を開発したりするように、だれかがイニシアチブを取って学問の成果や被爆者の心の叫びを結実させ、世界の人びとが「精神的な被爆者」になっていくためのあらゆる分野での行動計画をつくる必要がある。

 とりわけ、さまざまな芸術文化活動を活発にして、命の尊厳や平和の尊さを人びとの感性に訴えていくことが重要だ。今年の平和教育シンポでは議論だけでなく詩の朗読や音楽を取り入れた構成詩を発表する。貴重な原体験を語り伝える被爆者もある意味で芸術家ともいえる。私自身、残されたわずかな人生を、傷ついた体をあえてさらけ出して平和教育にささげるつもりだ。


視角 
 責務大きい ヒロシマ

 「広島・長崎の被爆の実相は世界の人びとに知られているのか」―。ここ十数年間、世界の放射能汚染の実態やカシミールの紛争地帯などの取材をしながら、機会をとらえては「広島について知っているか」と、取材対象者や家族らに聞いてきた。

 随分と辺境の地を訪ねても、広島の名前だけは知っている人が多い。「原爆が投下された都市」と結びつけて記憶している人たちが大多数だ。

 だが、そこで何が起きたかとなると、詳しく実態を知る人はほとんどいない。時間がある時は、取材バッグから被爆直後の惨状をまとめた薄い写真集を取り出し、大人や子どもたちにも見せる。驚き、食い入るように見入る。

 核超大国アメリカやロシアでも反応は同じである。そして、程度の差はあれ、それは日本でも同じであるかもしれないのだ。世界のヒバクシャの実態となると、日本人もまだまだ知らない。知るところから「核兵器を、戦争をなくさねば」との動きも出てくる。

 平和教育とは特別なことではないだろう。石田さんが指摘するように、この地球上に生きる者が互いに命の尊厳や平和の尊さを体で体得することである。それをどう教え、学ぶか。

 人類を滅ぼしかねない危険な核時代は、二十一世紀の今も続く。事実を学び、知らせること。その意味で被爆地広島、被爆国日本の役割・責務は大きい。平和教育の本質を忘れて、教育行政が「管理」することだけに目を奪われたり、教師間の組織対立などをしていては、将来に大きな禍根を残すだろう。(田城)       

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いしだ・あきら 1928年5月、広島市安佐北区生まれ。法政大卒。48年、広島県の代用教員に。72年、全国原爆被爆教師の会を設立し、会長に就任。76年、白内障の原爆症認定に伴う「石田原爆訴訟」で勝訴。81―83年、広島県教職員組合委員長。83年、広島県議となり現在5期目。著書に「被爆教師」など。


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