■ 力士育成、教育者の目で
「センセイ」の愛称で親しまれ、昨年の秋場所を最後に引退した大相撲の元小結智乃花親方(38)が、このほど、大いちょうを切り落とし、準年寄として指導者に転じた。山口県の中、高校で5年間教師を務め、27歳の高齢で入門した異色ずくめの元人気関取に、相撲人生を振り返ってもらうとともに、相撲の振興策などを聞いた。(松本洋二)
▼学生相撲〜教員時代 ▽団体5連覇、完全燃焼したと思った
―断髪式には横綱貴乃花や日大相撲部の田中英寿監督ら二百三十人が駆け付けました。
山口県の二井関成知事や教師時代の友人ら三十人にもはさみを入れてもらった。生まれは熊本県だが古里は五年住んだ山口と思っている。今も年に何度か長門市に帰り、元同僚たちと酒を酌み交わす。ほっとする時だ。
―教職に復帰しようと考えたことは。
ない、と言えばうそになるが現実には難しい。三十八歳では採用試験も受けられない。マツダの部長が校長に転身した広島県の例もあるが、それには若過ぎる。相撲界で指導者の経験を積んでからなら話は別だが。
―教師時代が懐かしいのではないですか。
いや、毎日が大変だった。最初に赴任した宇部市の中学は県内でも荒れているので評判だった。朝礼の校歌斉唱では誰も歌わない。体育祭の前日には、卒業生や在校生のワルが、準備したテントを壊しに来る。ここで体育教師を二年務め、その後一転、長門市の文武両道の進学校、大津高で三年。この五年で教えることの難しさを学んだ。
―プロ入りせず、教師の道を選んだのは。
日大時代に完全燃焼したと思った。四年の相撲部主将の時、戦後初の全日本学生相撲選手権5連覇がかかっていた。私の時に負けたら死んでおわびしようとさえ思った。
―それでも5連覇を達成したのですね。
一年後輩に久島海(現田子ノ浦親方)、二年後輩に大翔山(現追手風親方)、三年後輩に舞の海がいた。先ぽうが私で大翔山が副将、久島海が大将。今思えば豪華な布陣だ。無事達成できたが、個人戦と違い団体戦はチームワークが命。三十八年間生きてあの時ほど緊張したことはなかった。円形脱毛症にもなった。
―相撲はもう十分だと思ったのですか。
大学では勉強をしなかったように思われがちだが、日大相撲部は皆授業に出たし卒業もした。私も、二、三年時に頑張って必要な単位を取った。四年時は教職課程を履修した。それができたのは一年先輩の朝岡輝喜さん(現山口県立響高相撲部監督)の温かい配慮のおかげだ。
―教職に就いたのは、朝岡さんの影響ですか。
私はアマ相撲を続けたかったので、近くに当時朝岡さんが監督を務めていた県立水産高があるのは助かった。大津高では柔道部を担当し、相撲のけいこや指導は水産高でした。おかげで平成元年には、全日本選手権に優勝しアマ横綱になれた。
▼ 27歳、プロへの挑戦 ▽舞の海が刺激、月給6万円で再出発
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立浪親方に最後のはさみを入れてもらう智乃花親方(9月28日・両国国技館) |
―収入が安定した教職を捨てプロ入りを決意したのはなぜですか。
平成二年の福岡国体予選で右足首じん帯を傷め、そろそろ引退して指導者に、と勧められた。そんな時、入院先のテレビで舞の海が活躍する姿を見て感動した。自分より小さな体で、巨漢力士の懐にもぐり込み、必死に相撲を取っていた。よし、人生は一度きり。ボロボロになるまで相撲を取ってみよう。そう思ってプロへの挑戦を決めた。
―家族の反応は。
幕下からのスタートで収入は一場所務めて十二万円。月給にして六万円だった。二歳の子と女房は実家に戻ってもらい、三年だけ勝負させてくれと頼んだ。賛成した家族には感謝している。
―二十七歳の教師の入門で話題になりました。
現在は二十一歳までとの規定だが、当時は入門の年齢制限がなかった。この最年長入門記録は永久に破られないだろう。でも人に言えないつらさがあった。プロは十五、六歳で入る。周囲は皆そんな年代。教師時代は同じ年ごろの生徒に命令していたのが、今度は逆に彼らが先輩になる。敬語も使わなければならない。ちゃんこなべも洗った。立場を逆転させるには、強くなって関取になるしかないと思った。
―日大相撲部の後輩たちも先輩ですね。
大学の後輩たちは、「先輩、先輩」と立ててくれたが、私はあくまで新弟子。言葉遣いも学生時代と同じようにはいかなかった。その構図は親方になった今でも同じ。久島海も大翔山も先に親方になっていたから。
―入幕は初土俵から11場所目。日大の先輩元横綱輪島を越えるスピード出世でした。
初入幕もうれしかったが、十両になれたのが一番うれしかった。関取として国技館の土俵に上がるのが夢だった。給料も百万円近くなり、家族と住むこともできた。
人間、上がる時は運だけでぐんぐん上がって行く。十両までいければ、と思っていたのが、入幕し、小結までいけた。自分の能力を自分で決め付けちゃいけない。つくづくそう思った。逆に落ちてきた時の努力は大変。勢いがある時の十倍も努力したのに結果が出ない。
―もう少し早くプロに入っていたら、という後悔はありますか。
二十七歳で入ったからこそ、ここまで努力できたと思う。もっと早く入門していたら、果たしてここまでの気力があったかどうか。その意味では後悔はない。粉骨砕身、力の限り頑張ったと思う。
▼指導者の道、今後は… ▽自分ならではの経験を生かしたい
―今、中国地方出身の関取は安芸乃島ら三人だけ。寂しいですね。
相撲人口の少なさも一因だ。中学の教師時代、四人を集め相撲部をつくった。それでも、一人が山口県で優勝し中国ブロック大会でも優勝、全国大会に出場した。きちんとした指導をすれば伸びる要素はある。大津高でも相撲部をつくらせてほしいと願い出たが実現しなかった。指導者がいなくなったら部がやっていけない、という理由だった。
―そんな現状を打開する方法はありますか。
悲観する必要はない。山口県豊浦町では小、中、高校の相撲部が合同練習するなど環境が整ってきた。今年は中、高とも全国大会で団体3位に入った。日大相撲部OBたちも中国地方の高校教師となっている。そんな中で素質を開花させたのが琴光喜だ。愛知県出身で鳥取城北高に留学し日大で実力を付けた。水産高から日大を経てプロ入りした幕下の北村も楽しみだ。中国地方にも優秀な指導者がおり、関取はもっと増えよう。
―親方が高校の監督になれば最高ですが。
体育教師は大変な職業だ。朝八時から五、六時間も炎天下や木枯らしの中で指導する。終われば指導案作りなど。家に戻れば、父母から生徒が家に帰って来ない、などと電話がある。夜、はいかいしている生徒を捜すのも仕事だ。毎日が寝不足でふらふらだった。
先生の仕事は嫌いじゃないが、これからは相撲を通して若い人を教育してみたい。学校だと相撲の指導に専念できない。自分ならではの経験を生かしてみたい。
―大相撲人気の低迷が続いていますが。
人気回復はスターがいるかどうかで決まる。貴乃花が復帰した秋場所は活況だった。満員御礼が続いた当時は若貴がいてわき役も個性的だった。そういう力士をいかに育てるかだろう。
近年は小学で相撲を始め、中、高、大学の相撲の名門校を経てプロに入るエリートが多い。時代の流れだが、逆に十五、六歳で入門した人を教育者の目で育ててみたい。スポーツを通して人間形成に役立てれば、真の教育だと思う。
―準年寄の任期は二年ですが、その後は。
協会には年寄名跡を買うか、借りないと残れない。自分の部屋を持ちたいとも思うが、東京都内では大変な仕事。一生のうちにたどり着けたらの思いでいる。あとは能力と天運だ。
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スポーツを通して人間形成に役立てれば―と語る智乃花親方(立浪部屋) |
とものはな(本名・成松伸哉)1964年6月23日、熊本県八代市生まれ。熊本農高で高校選抜宇佐大会に優勝。日大では相撲部主将を務め、全日本大学選手権で団体優勝。卒業後は宇部市の中学、長門市の大津高で5年間、教師を務めながら89年の全日本相撲選手権で優勝してアマ横綱に。92年に27歳で立浪部屋に入門し、初土俵から11場所で新入幕。最高位は小結。2001年引退。成績は379勝381敗。175センチ、117キロ。現在は部屋付きの準年寄。
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