「ぼろは着てても こころの錦 どんな花より きれいだぜ」「しあわせは 歩いてこない だから歩いて ゆくんだね」…。日本人の心に染み込む名曲を数々、送り出してきた山口県東和町出身の作詞家、星野哲郎さん(77)。今年、作詞生活満五十年を迎えた。四千曲を超す歌は義理人情や友情、人生の哀感をつづり、「人生の応援歌」「星野演歌」と言われる。「休む間もなかった」と振り返りながら「ヒット曲を一曲でも多く残したい」とも。衰えない創作への思いを熱く語った。(守田靖)
■歌手との出会いに恵まれた
■出だしの2行 全精力傾ける
♪♪ 大病
あっという間でしたね。病気を何度もして、死ぬか生きるか分からん時期がありましたから。とにかく、今日を生きるのが精いっぱい。「今日の山を全力で登る」。そう自分に言い聞かせてきました。
二十四歳で腎臓結核になり、その後、いい大人がずっと寝たきり。手間ばかりで、おふくろがかわいそうだと思いましてね。頭と手は使えたので、詩や歌詞を募る雑誌に投稿し始めました。
♪♪ 先輩
デビュー曲の「チャイナの波止場」は、(大竹市出身の作詞家)石本美由起先生が、僕の詩を認めてレコードにしてくれた。石本先生は「憧(あこが)れのハワイ航路」「港町十三番地」など歌が明るかった。僕は暗い歌ばかり。でも「同じような歌でなくていい」って。
<星野哲郎作詞の主なヒット曲> |
発表年 |
歌 |
歌手 |
1958(昭和33)
1959(昭和34)
1963(昭和38)
1964(昭和39)
1965(昭和40)
1966(昭和41)
1968(昭和43)
1970(昭和45)
1975(昭和50)
1980(昭和55)
1982(昭和57)
1983(昭和58)
1987(昭和62)
1991(平成 3) |
思い出さん今日は
黄色いさくらんぼ
柔道一代
アンコ椿は恋の花
函館の女
いっぽんどっこの唄
三百六十五歩のマーチ
男はつらいよ
昔の名前で出ています
風雪ながれ旅
兄弟船
女の港
雪椿
みだれ髪
北の大地 |
島倉千代子
スリー・キャッツ
村田英雄
都はるみ
北島三郎
水前寺清子
水前寺清子
渥美清
小林旭
北島三郎
鳥羽一郎
大月みやこ
小林幸子
美空ひばり
北島三郎 |
「人まねせず、自分独特の色を出すこと。大衆音楽の世界で生きるには、それしかない」と。それで、他の人が使った言葉は絶対使わないと心に決め、変わった歌ばかり書いた。「夜がわらっている」とか「黄色いさくらんぼ」とかね。
♪♪ 多作
一九六三年の日本クラウンの創立に参加し、所属歌手の歌はほとんど書いた。一番多い年で年間に百五十八曲。二日に一曲。タイトルを考えるだけでも大変でした。
ネタは、新宿の雑踏で拾った。両方のポケットにメモ帳を入れて行くんです。家に帰ると、寝る前に詞を一つか二つ書いて寝る。それを嫁さん(故・朱實さん)が清書してくれる。他の人の字で書いた詞だと欠点が見えやすい。それを直す。その繰り返しでした。
♪♪ アンコ椿
スランプになると、昭ちゃん(作曲家市川昭介さん)や船村徹先生(同)なんかが、いい人をヒョコッと連れて来る。さぶちゃん(北島三郎)やチーター(水前寺清子)なんかがそう。すると、どうしようもなく詞を書きたくなる。その歌い手に、自然と書かされちゃうんだよな。
都はるみは昭ちゃんが連れて来た。「書かなくていいよ。歌を聞くだけで」。そう言われると、人生の捨て難い出会いなんて思い、書きました。で、書いたんだから使えよと。それが「アンコ椿(つばき)は恋の花」でした。
♪♪ 義理人情
歌はアイデアと体力です。時間を掛けて直せば歌はよくなる。「昔の名前で出ています」なんて八、九回書き直してる。演歌は出だしの二行が勝負。「これはいい歌だ」と思わせないと、それ以上聞いてくれないから。二行に全精力を使った。移ろいやすい世の中だけど、義理人情は変わらないと信じてる。そこをどう書くか。大事なのは愛で、すべての中心にないといけません。
今も一日一本書いてます。昔は、世界一周していた高等商船(現東京商船大)時代の級友がうらやましかったけど、彼らはもうリタイア。作詞家という職は天職と考えて、体に気をつけ書き続けます。夜明けまで飲んだ時もあったけど、今は午前三時半に起きますから健康です。
♪♪ 古里
大島には昨年も七、八回帰った。年に一回は、小、中学時代の同級生とホテル「大観荘」で飲むんです。でも、いい仕事をしてないと、古里って帰れないもんですよ。今は帰りたくない。ヒット曲がないから。「今、どんな歌がヒットしているか」なんて聞かれるから。ヒット曲を出したい。何曲出してもその上が欲しい。永遠に達成できない夢なんですけど。
▽僕の人生の支え
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「ともに演歌で泣き笑いしてきた仲間」と盛り上がる、左から星野さん、北島さん、山本さん(東京都内) |
星野さんと四十年以上付き合いのある演歌歌手・北島三郎さんの話 星野先生とは、互いに「哲っつぁま」「さぶちゃん」で遠慮がない。出会ったのは、北島三郎って芸名を名乗る前のことで、哲っつぁまに「なみだ船」を書いてもらって世に出た。
あのころは、水前寺清子さんも畠山みどりさんも、みんな星野哲郎。伸び悩んでいた歌手が、哲っつぁまの歌で上げ潮、勢いに乗った。しかも、みんな大漁。すごかったね。
僕は漁師の息子に生まれ、哲っつぁまも船に乗っていたんで、どっか通じ合う。本当の兄弟みたい。歌を頼むとね、「あっ、分かった」ってすぐ書いてくれる。素晴らしい先生であるとともに心優しい人。僕の人生の支えだね。
▽新曲で恩返しを
下関市出身の演歌歌手・山本譲二さんの話 星野先生と「おやじ」(北島三郎)のそばで、「兄弟仁義」が生まれた裏話などを聞いて勉強しています。先生には一九八六年に「長州の男」を書いていただいたけど、ものにできず、すいません。今月発売の僕のデビュー三十周年記念曲「生きる」は星野先生がおやじに書いた曲をいただいたもの。ヒットさせ、恩返しをしたい。
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