「私が私が」強烈な自己愛
暴言ともいえる政治家の問題発言が相次いでいる。カネをめぐる問題にとどまらず、永田町ではなぜ常識外れの行為が後を絶たないのか。最近、その原因を政治家特有のパーソナリティーに着目して分析のメスを入れたのが精神科医で民主党衆院議員の水島広子氏(栃木1区)である。書名はずばり「国会議員を精神分析する」(朝日選書)。議員特有のパーソナリティーとは何か。有権者はその議員とどう向き合えばいいのか―。水島氏に聞いた。
(東京支社・守田靖)
■他者へ共感欠きがち 有権者はしっかり監視を
―太田誠一元総務庁長官の集団レイプ容認発言や、森喜朗前首相の「子どもをつくらない女性を税金で面倒みるのはおかしい」発言などは、政治家のパーソナリティーのなせるところですか。
彼らは常に「大人」「男性」という「強者」の立場にしか立たない。身の回りに女性や子どもという弱者がいないからだろうが、自分の「常識」にはない事実には心を閉ざしてしまう。レイプ被害に遭った女性や、子どもが欲しいけど産めない女性たちへの「共感」が欠如している。
福田康夫官房長官の「男は黒ヒョウだから」というレイプ容認発言も、本人は冗談のつもりだろうが、笑って許されるのか相手を傷付けるのか、それがトータルに考えられない。彼らはみんな他者への共感を持たない「自己愛パーソナリティー」の典型です。
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衆院本会議場に並ぶ国会議員。水島氏によれば、自己愛の強いタイプが集う舞台となるようだが… |
―政治家には、そういうタイプが多いと指摘していますね。
自己愛は「自分は大切な人間だ」という気持ちで、本来、だれもが持っている。生きていく上で大事なものだ。だけど自分と同じように「他者も大切だ」と考えられなければ、自分だけが特別な存在になってしまう。政治家には、そういう誇大な自己愛を持っている人が多い。
▽弱者の声置き去り
―なぜですか。
政治の世界は「自分が、自分が」という自己愛の強い性格でなければ生き残れないからでしょう。パーティーで名刺を配って歩いたり、平気で相手をおだてたり。問題は、そういう人たちが選挙に勝つために弱者に耳を傾けることは少ないということ。弱者は少数派で、票にならないから。
―弱者は、政治から置き去りにされるようになっているのですね。
それが、不安の時代にますます強化される恐れがある。前回の自民党総裁選で小泉純一郎首相が「リーダーシップ」や「毅然(きぜん)として」という言葉を多用し、受けたのもその一つ。その流れは、選択的夫婦別姓や子どもの多様性を認める考えとはまったく逆行している。小泉首相は一見、自己愛は薄そうだけど、自分の中の「あるべき総理像」を演じるのにこだわるタイプで、弱者の意見に耳を傾けない。自己愛タイプの一人だと感じる。
▽牛耳られる市民派
―著書の中で、弱者の立場に理解を示す市民派議員は政治の主流になれないと指摘しています。
常識があるからだ。例えば市民派議員は、委員会などで自分と同じ意見が出れば、発言しなくてもいいと思う。だけど自己愛の強い人は、同じ内容でも「私の考えでは」と何度でも発言する。それを恥ずかしげも無くやれるから、そちらの側の発言量が増え、牛耳られていく。
―市民派議員はそこを克服できますか。
「行儀の悪い人に負けてもしょうがない」と諦めるのではなく、意見を通すことへの責任を自覚しなくては。どんなにいい法案でも、通さなくては意味がない。時には根回しも必要。怒鳴らなくても、一対一で相手を説得すればいい。市民派はもっと人情の機微などを学ぶ必要がある。
▽全体像つかむべき
―有権者はどうあるべきですか。
私の選挙地盤の栃木県も、他の地方と似たり寄ったりで「赤じゅうたんを踏むまでは、何度でも土下座しろ」というお願い型の選挙が主流の土壌。そういう選挙は自己愛の強い政治家が強い。相手をおだてるのもうまいから、有権者もつい乗せられてしまう。
―どう打破しますか。
その議員が、その場しのぎではなく、トータルでどう発言し、立法活動をしているかを見てほしい。口で賛成とか反対を言うのは楽だ。市民派議員の中にも、場所が変われば違うことを言ってる議員もいる。ある問題について立法活動までしていれば本気と見ていい。
―有権者側の政治意識の度合も問われそうですね。
議員活動への支持は、株への投資と同じように考えてみてほしい。「あんなにお願いしてる。かわいそうだから」と株を買う人はいない。優良株かどうか見極めるはず。それと同じだ。そして、投資した以上は毎日、新聞で株価を追うように、行動を見続けてほしい。有権者と政治家が責任を分かち合った上で、選挙という名の株主総会に臨んでほしいと思う。
特別扱いをやめよう
自己愛パーソナリティーの強い人がもともと国会議員になりやすく、国会という特権意識をあおる場所で、さらに本人は「自分は特別な存在なんだ」と自己愛を深めていく―。精神科医ならではの説明に興味深く著書を読んだ。
確かに国会には、議員の特権意識をあおる装置があちこちにあり、疑問を感じる。著書で指摘されているエレベーターの赤じゅうたんや、食堂の議員専用スペース。議員が議員会館の玄関に近づくと「○○先生」とアナウンスが入り、黒塗りの車が横付けになる。
有権者も、そういう特権意識を持つ議員から「ほめられる自分」という自己愛を持つという。「自己愛」「特権意識」の共有である。二世議員に対して有権者はブランド意識さえ持つとも水島さんは指摘する。一方で、政策を地味に追及する市民派議員は主流になれない…。
永田町を常識の世界に戻すには、水島さんの言うように議員の特別扱いをやめ、有権者自身も目覚めなくていけない。
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