国内生産に勝算あり
日本の製造業が揺らいでいる。円高で海外への生産移転が進み、韓国、台湾、中国などの追い上げも急ピッチ。特に国際競争が激しい電機業界の国内空洞化が目立つ。その中で、液晶や太陽電池で世界トップのシャープ(大阪市)は、この二年間で三原市や三重県に三つの新工場をつくり、二工場を増強するなど国内生産に力を入れている。町田勝彦社長(60)に日本のモノづくりの課題と打開策を聞いた。(編集委員・宮田俊範)
■製造業を極める 開発と一体化大切
―年頭会見の経営方針で「製造業を極める」と強調されました。
実は二年半前から、日本で製造業を極めないと大変なことになると思って言い出した。当時は日本では製造業はもう成り立たないという論調が強く、みなさんからいまさら何をばかな、と反発も受けた。
でも、これは社長になるまで海外事業本部長をやり、海外生産の旗振りをしてきた中で出てきた自戒を込めた言葉だ。海外では当然安く作れるが、そこで何が起きたかといえば、その商品の日本における生産技術開発が停滞し始めた。こっちで進化しなかったらどこかで行き詰まる。日本で製造業を極めないと、結果的に海外もネタ切れになると気付いたからだ。
―具体的には。
ひところ開発は日本、生産は海外という水平分業論が言われたが、それはモノづくりをしたことがない人の考え。技術者が開発し、設計したものを製造工程に流しても、すぐにはうまく流れない。技術者は製造部長に怒られながら設計をやり替えたり、機械をいらったりしてのたうち回る。そうやって部品が入れやすく、短時間に生産できるようになる。
生産現場がないメーカーなんてないわけで、開発や設計と生産が分離していてはだめ。それと大きくは日本にモノづくりを残さないといけないという危機感もあった。
―海外と比べコスト面で不利になりませんか。
それをクリアするのがメーカーの務め。人件費や水道、ガス料金などいろいろなハンディキャップを乗り越えるところに初めて生産技術を極める努力が始まる。いかに人や電気を使わずにやるか。そこに生産技術やノウハウが生まれる。良品率も海外が80%なら日本では100%を目指す。それが極めるということだ。
ただし、必然的に極める製品は限定される。例えば携帯電話は、まだ日本で生産した部品がたくさん必要だから東広島市で手掛けている。日本で常に新しいものを作れば、海外には部品がないからすみ分けは可能だ。
―為替問題はどうクリアしますか。
これには大変不満がある。十年前と比べ、円はドルに対して数%円高になっているが、韓国のウォンや中国の元は30%から40%安い。購買力平価からみたら百六十円ぐらいが適正だろう。ただ、為替問題はわれわれ大手はまだ楽で、この仕事は中国が安いかマレーシアが安いのか、と計算しておけばいい。だが、簡単には海外に移れない中小企業は気の毒。一ドル=百六十円ぐらいになれば、海外に出ていた仕事も国内に戻って中小企業はハッピーになり、失業問題も解決する。
■特徴ある製品 複数の技術融合がカギ
―オンリーワンを経営方針に掲げていますね。
国際競争時代に生き残るためにどうすればいいか、というのが発想の原点。昔は部品を組み合わせればオンリーワンの製品が作れたが、最近は集積度が上がり、特徴ある部品、デバイスを作らないと特徴ある製品ができない。デバイスと商品をつなげて垂直統合するには、技術者はそれぞれ別々だからどう融合させるか。そこにオンリーワン経営がある。
携帯電話がいい例で、世界初のカメラ付き携帯電話を作るため、小さな中にCCDを入れるのに大変な努力が要った。それを福山市と東広島市の工場がうまく連携してできた。今は一つの技術を極めるだけではオンリーワン商品は生まれない。いろいろな技術を融合させる。つまり融合のマネージメントが一番大事だ。
―融合といっても簡単ではないのでは。
わが社は一九七七年から一つの商品を急いで作るためにさまざまな技術者を集める緊急プロジェクト制度を設けている。こうしたことが脈々と受け継がれ、セクション間の垣根が低くなり、全社的にものを考える人間がたくさん出てきた。そういう制度を通じて技術を融合している。
さらに商品でお客さまのニーズをつかみ、それを意識した部品を作る。それで世の中に先駆けた商品を作るサイクルが出来上がる。昔から壁掛けテレビというニーズがあったわけで、それが今の液晶テレビになった。
―夢が多いですね。
製品を実現するのはやはり夢。技術者、メーカー、ユーザーのそれぞれに夢があるからだ。それとわが社は常に世の中にないモノを手掛ける企業風土がある。日本で最初にラジオを作り、電子レンジ、テレビもそうだ。
私は四代目だが、これまでの社長もみな同じことを言ってきた。初代は「他社がまねをする商品を作れ」、二代目は「需要を創造せよ」、三代目は「ユーザー目線に合ったものを作れ」だ。創業以来九十一年かけてこんな企業風土ができたわけで、一朝一夕ではない。
―十年後の企業像は。
二十一世紀は環境の世紀。環境先進企業にならないといけない。太陽電池では世界で22%のシェアがあり、ブラウン管の半分のエネルギーで済む液晶と合わせ、環境に優しいグリーンプロダクトで世界一が二つある。それをもっと増やしたい。洗剤を使わない食器洗乾燥機を出したが、環境を考えたら新しい商品もできる。
もう一つは、工場をグリーンファクトリーにしてごみの排出ゼロで水もすべてリサイクルするような完ぺきな工場にしていこうと考えている。二〇一〇年ごろには、この企業はすごい、といわれるようになりたい。
飽くなきチャレンジ精神
バブル崩壊から十年余り。この間に多くの製造業が生き残るために取った手法がリストラと海外生産だった。だが、シャープは海外生産こそ一部推進したものの、事実上、この二つと逆の道を歩んだことで今日の成功を導いたことが光る。
その根底には、町田社長が語るように九十一年前の創業以来培ってきた企業風土がある。常に世の中にない新しい製品を作り出すことを企業の存在感、使命に掲げてまい進。それが今日のグローバル競争時代にあっても立派に通用することを示している。
こうしたシャープの取り組みと経営に対する自信は、とかく元気がないといわれる日本経済の一つの指針になり得る。開発や生産現場など足元をもう一度冷静に見つめることで、まだまだ活路が開けるのではないか。
人は宝 磨き育てる
心強い自治体の後押し
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昨年5月に広島県内で3番目に操業を始めた三原工場(三原市) |
―来年初めに三重県亀山市に液晶テレビ工場が稼働します。なぜ三重県だったのでしょうか。
単純な話で、三重県多気町に三千百億円投資した液晶工場があり、一九九五年から操業して液晶の産業クラスターも出来上がってきた。そこで北川正恭・前知事からもっと大きな液晶バレーを作りたいと言われ、協力しましょうとなった。
それと液晶開発の拠点が奈良県天理市にあり、多気町と等距離なのが亀山市。技術と生産との連動が大変便利だという地理的な理由もあった。
―県が進出企業に資金援助するインセンティブも理由だったのでは。
それは違う。それなら海外にした方がずっといい。当初七年間は法人税がゼロで、あと三年間も半分にするなどけた違いだ。それより液晶バレーを作るという県の構えが気に入った。
支援も心強かった。すぐ造成をやってくれ、送電線や道路問題などわれわれでは解決できないこともささっとやってくれる。その点では広島県の姿勢も素晴らしい。
―確かに広島県では昨年、三番目の三原工場を稼働させました。
行政手続きで手間がかかる県が多い中で、広島県はワンストップサービスでやってくれた。これも藤田雄山知事の即断だ。実はほかに候補地もあったのだが、広島県の好意的な姿勢が決め手になった。一度進出すれば企業は簡単には帰れない。一時的なお金より長い目でのお付き合いが大切だ。
―地域がどれだけ支えるかがポイントですね。
企業に特徴が必要なのと同じく、県にも一つの顔、特徴があっていい。私の県はこうしたいという産業政策や意思表示を明確にすることが重要で、三重県の場合、それが液晶バレーだった。広島県だと半導体、シリコンバレーになる。広島大には半導体に強い講座もあり、これから協力工場なども集まるだろう。
―地域との関係では雇用の維持も大切です。
人を大切にしなくてシャープの経営理念は成り立たない。中国、韓国、台湾の追い上げに勝つのも結局は人だ。リストラは一切やらない。
ただし、甘えるな、成果主義はやると言っている。それと多能工になってもらわないと困る。産業にはアップダウンがつきもの。だが、シャープには幸い、いろいろ伸びる産業があり、働く場がある。過去五年間で五千人のスキルチェンジ研修をした。だから人員削減をする必要が起こらない。
1912(大正元)年に東京で創業し、シャープペンシルを発明したことで知られる。関東大震災で工場が焼失し、24年に大阪に移った。70年から現社名。鉱石ラジオを皮切りに、テレビ、電子レンジ、電卓、液晶テレビなど国産初の量産が多数ある。2003年3月期の連結売上高は2兆円。
国内の生産拠点では、関西、関東のほか広島県に三工場ある。東広島市の広島工場は67年稼働し、生産品目は当初のオーディオから携帯電話へ発展した。85年に福山工場ができ、フラッシュメモリーやデジタルカメラなどに使われるCCD/CMOSイメージャなどを生産する。最新の三原工場は昨年5月操業。DVD機器の要となる半導体レーザーなどを製造する。3工場合わせ社員数3千8百人、売上高5千5百億円。全体の約3割を占める。
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「中国、台湾、韓国の追い上げに勝つのも、結局は人だ」と語る町田氏 |
まちだかつひこ 1966年京都大農学部卒。69年に早川電機工業(現シャープ)に入社し、取締役、常務家電事業統轄を経て、92年から専務海外事業本部長。98年6月から現職。大阪府出身。 |
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