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2003/10/19
周防大島文化交流センター来年開館 (山口県東和)
周防大島郷土大学 企画部長 新山玄雄さんに聞く

宮本常一の志継ぎ地域の再生試みる

  山口県東和町出身の民俗学者宮本常一(一九〇七―八一年)の資料の保存・公開・活用を大きな柱にする「周防大島文化交流センター」が、来年開館する。没後二十二年ぶり、同町の「宮本常一記念事業」の創設から十七年ぶりの大きな節目。「宮本常一記念館」ではなく「交流センター」を名乗り、二十一世紀の島づくりの拠点となる可能性に道を開いた。晩年の宮本が郷里で開講し、今年復活した「周防大島郷土大学」のキーマン、新山玄雄さん(52)に思いを聞いた。

(大島支局・佐田尾信作)

 ■人を育てる視点で■

 ―東和町の長年にわたる「宮本常一記念事業」への努力が、「周防大島文化交流センター」に結実しようとしています。その役割とは。

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外観が完成した周防大島文化交流センター(山口県東和町平野)

 大きく言えば、日本が戦後、経済優先の中で切り捨ててきたものの中にある大切なもの、それを見つめ直す場でしょう。宮本常一先生もまた、そんな仕事を生涯続けてきた人だったと思う。

 ―近代以降、人材をアウトソーシングし続けてきた山口県、中でも周防大島は今、過疎・高齢化に沈んでいる。そんな時代にこうした場ができるのはタイムリーですね。

 山口県人は「男子志を立てて郷関を出ず」(幕末周防の海防僧月性の漢詩)の精神で、近代日本をつくってきた。ぼくもそれを否定はしないが、その結果、地方は衰退した。交流センターはもちろん実学の場ではありますが、「郷関を出ず」ではなく「郷関にとどむ」とでもいう思想や哲学が旗印になるでしょう。

 ―人がこの島に帰る、この島で暮らす、その意味を考える場ですね。

 そうですね。ぼくたちの先人は命がけでハワイや対馬へ渡り、漁業などのなりわいを営み、独自の文化を築いた。その生き方を知ることが、この島で生きる誇りになり、志になる。一見遅れているように見えながら、くめども尽きない豊かな世界が見えてきます。

 ―とはいえ、宮本常一はマイナーな存在です。「今の日本はどこかおかしい」という人々の思いが、彼への再評価につながるのでしょうか。

 家庭はバラバラ、教育はコマギレ、職場はリストラ、地域社会も痛んでいる。ものづくりもなくなった。今の日本のどこにトータルな伝承、継承があるのでしょう。これでは具合が悪い、という思いは皆あるはず。

 ―宮本初代学長の郷土大学は姫田忠義さん(記録映画監督)を迎えて五月に再開できました。二十一年ぶりでしたね。

 当時、宮本先生は「東和町の維新が始まる」と言った。価値の見直しです。郷土大学が続いていれば、大島もかなり趣が違う島になったでしょうが、現実は補助金の補助率がいい公共事業に依存する体質。公共事業はもちろん必要だが、人を育てるという視点が十分ではなかったと思う。

 ―郷土大学は毎月一回の講義を重ねて、学生数は百五十人を超え、講師陣も「待機状態」です。交流センターにとって郷土大学の役割は。

 重要なサポーターであり、多くの人が交流センターを生かす下地です。交流センターは「官」がつくりましたが、中身は皆でつくり上げたい。郷土大学の自然なご縁からさまざまな関係性が期待できる。この大島で日本の地域社会の再生の「処方せん」を出す実験ができれば、と思います。

 ―それが「宮本学」なんでしょう。
 宮本千晴さん(宮本常一の長男、探検家)は「交流センターを墓場にはしてくれるな」と言っています。展示物を見せるだけの施設にしては意味がないわけです。大島郡四町合併は来年十月に控えていますが、新町にふさわしい島づくりの拠点にしたいものです。

 ―交流センターのもう一つの目的、農山漁村の暮らし体験についても、準備をしていますね。

 宮本先生と縁ある実践家や地元の海と山の「達人」の技術を体験、習得できるプロジェクトを皆で考えたいと思います。竹炭づくりの計画は既に始まっています。「自然は寂しい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる」という宮本先生の言葉がありますが、かつての棚田やミカン山のように、人の手が加わった景観を少しでも取り戻す実験場になればいい。

 


●暮らしの実感 五感で伝える
独自のプログラムを

  「大島大橋を渡ったとたん、竹の多さにあ然とした。表面は緑でも、その下は砂漠と同じだ」

 NPO法人「樹木・環境ネットワーク協会」専務理事の渋沢寿一さんは開口一番、こう言って嘆いた。薪(まき)を採った山がいつしか忘れられ、島民の目が海にばかり向いてきた結果ではないか―。近代産業の父渋沢栄一のひ孫に当たるこの人は、九月に周防大島を訪れ、穏やかな物腰で「危機」の一つを言い当てた。

 昨年六月、東和町で自分のミカン山に入った母子が道に迷い、一・五キロ離れた里で翌日保護された。数年ぶりの山はジャングルのようだったという。久賀町の山中では、倒産企業の自家給油所や採石跡地などが人知れず放置されていた。荒涼たるこの地も、かつては棚田やミカン山だった。

 宮本常一は波が石垣をドサリドサリとたたくような海辺の家に育ち、旅に歩きながらも、大島の山や海の景観と人々の暮らしの変遷を生涯見続けた。人の意思が働く景観を愛したが、その景観が消滅の危機にある。

 渋沢さんは言う。「宮本先生の資料を並べるだけでなく、海と山はつながり、それで私たちの暮らしが成り立っている実感を五感で伝える。そんな交流センターになれば画期的だ」。交流センターが宮本の遺志を継ぐなら、大島の「今」を見つめ直すプログラムは欠かせない。宮本の十万枚の写真群も生かせる。

 宮本の影響は、新潟県・佐渡、長崎県の対馬や五島などの離島により色濃く残る。「宮本常一記念館」は日本各地にあっても不思議ではない。

 あえて生誕地から情報発信するには、独自の普遍的なプログラムが必要だろう。宮本ゆかりの人と土地から今、大島に向かい始めた有形無形のエネルギーも百パーセント吸収してほしい。まずは人づくりを考えてほしい。でなければ、交流センターは埋め立て地の公共施設の一つで終わってしまう。

 

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「可能性の束を文化と呼ぶ、という宮本先生の言葉を今こそ思い起こしたい」と語る新山さん(撮影・高橋洋史)

にいやま・しずお  73年立命館大、75年佛教大卒業。山口県東和町沖家室島に帰郷して自坊の浄土宗泊清寺を継ぎ、現在は住職で総本山知恩院布教師。83年から町議6期目。沖家室大橋架橋運動を通じて宮本常一の薫陶を受け、同町宮本常一記念事業策定審議会の推進部会長も務める。

《周防大島文化交流センター》木造一部コンクリート造り延べ床面積千四百五十五平方メートル。宮本常一資料の紹介を通じて都市と農漁村の交流を促進するのが事業目的で、「新山村振興等農林漁業特別対策事業」を活用。総事業費五億円を投じ、国の二分の一補助を受けている。来年四月から六月の間に開館する見通しで、内部には「宮本常一塾」などの名称の学術部門を置くことを検討。センター長や学芸員は民間から登用する案が有力。

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