植生の保存が急務
広島県芸北町の八幡湿原は、貴重な湿原植物の宝庫として知られる。乾燥化が進む湿原の復元を目指す試みが今、地元で始まっている。県も自然再生推進法に基づく「八幡湿原再生協議会」を十一月に発足させ、復元事業に一歩を踏み出す。西日本有数とされるかつての湿原の姿を取り戻すことはできるのか。芸北町八幡にある「高原の自然館」で、湿原の調査・研究を続けている学芸員の白川勝信さん(31)に聞いた。
(編集委員・山内雅弥)
伐採や草刈り 地元の活動に期待
―いま、八幡湿原はどんな状態にあるのでしょうか。
八幡湿原は一つの湿原を指すのではない。最も大きい奥尾崎(おぜき)谷湿原(約一・八ヘクタール)から、畳数枚分の小さなものまで、あちこちに点在している。
一九八八年に撮影された航空写真を六四年の写真と比べてみると、湿原の面積が大きく減少していることが分かる。花の時季に多くの人が訪れる尾崎谷湿原も、この二十四年間で三分の一以下の広さになってしまった。湿原の中でも、周辺部からどんどん減っている。
土砂流入で乾燥
―急激に湿原が減ってきた原因は。
一つは、道路や水路が造られたことで、工事の際に土砂が流入したり、水が分断されたりして、乾燥化したことが挙げられる。
もう一つ、湿原の集水域に当たる部分の利用の仕方の変化も大きい。昔は、野山で牛馬の餌や堆肥(たいひ)にする草を刈ったり、燃料に使う木を切っていた。ところが、それをしなくなって森林が発達すると、湿原に供給される水の量が減るうえに、水の栄養分が多くなって、湿原の生態系に影響するからだ。森林がつくった土壌自体も入って、湿原を埋めてしまう。
人の営みと関連
―集水域が里山として利用されてきたことが、八幡湿原の維持・保全につながっていたというわけですか。
八幡の場合、湿原の上流というのは発達した落葉樹林ではなく、アカマツ林や草原のような未発達な植生だった。別の見方をすると、それだけ人間が湿原の上流を使ってきたと考えることができる。山林が利用されなくなると、湿原の衰退を招くことになる。
西日本の中山間地の湿原は、人がずっとかかわってきた。湿原の発達自体は気候的なものと、地形的なものが大きいが、それが維持されたり、減少したりするのは、人間の生活が密接にかかわっている。
―群馬、福島、新潟県にまたがる尾瀬をはじめ東日本や北日本では、自然に発達した湿原が多いのとは対照的ですね。
湿原の発達段階という点でも、ミズゴケやコケモモを中心とする高層湿原が発達した尾瀬や霧ケ峰(長野県)とは異なっている。冷涼多雨ではあるが、これらの地域に比べると暖かい八幡湿原の場合、オオミズゴケ中心の中間湿原が最終段階となる。
―八幡は「西の尾瀬」ともいわれます。
一つの地域の中に、比較的大きな湿原が複数点在している点が、八幡湿原の特徴だろう。〇・五ヘクタール以上のものだけでも八カ所ある。規模だけでなく、種の多様性という点からも、周辺部を含め百三十種類が確認されている。西日本では極めて貴重な湿原であることは間違いないと思う。
中間湿原を代表する植生として、世界的に知られるようになった「ヌマガヤ―マアザミ群集」も、一九五九年に八幡で発見・命名されたものだ。
踏みつけも一因
―都会などから訪れる人のマナーは、どうでしょうか。
道路端などに捨てられたごみはあまり見かけないが、毎年、花が咲くころには必ず、湿原の中に踏みつけ跡が見つかる。踏みつけが繰り返されると、湿原をつくっている泥炭が分解されて乾燥してしまう。環境が年々、悪くなっていることは否定できない。
八幡湿原をつくっている泥炭は、一メートルたまるのに、六千年以上という長い時間をかけている。たとえ十センチ踏みつけるだけでも、千年近い歴史をつぶしていることを、もっと認識してほしい。
―地元で湿原保全の取り組みが始まりました。
八幡地区では十年以上前から、「湿原を守る会」が活動を続けている。高齢者を中心にした五、六人のメンバーで、松を切ったり、草刈りをしたりしている。自然保護といえば、都市部の人が主導するケースが大半だが、地元から機運が出てきた点は注目されると思う。
―湿原を保全していくために、何をすべきでしょうか。
湿原の利用をうんぬんする前に、まず残っている植生を保存していく方法を考えないと、ますます悪くなるばかり。ボランティアの人たちと協力しながら、保存のための輪を広げていきたい。
「八幡の湿原は本来、こういうものだ」という湿原の復元も必要だ。自然状態にある湿原に入らなくても、花を楽しんだり、写真を撮ることができる。他の湿原保護にもつながるだけに、湿原の生態系を保存する以上の役割を期待できる。
まず価値を意識しよう
環境省の「日本の重要湿地500」にも選定されている広島県芸北町の八幡湿原は、人間の営みと密接に関係しながら維持され、存続してきた。白川さんの話を聞きながら、人も生態系の一員であることを、あらためて思い知らされた。
八幡の湿原をはぐくんできた西中国山地自体、手付かずの原生林ではない。古くから、たたら製鉄や炭焼きなどが盛んに行われ、辺縁も採草地として利用されるなど、人間と自然がうまく共存してきたのだ。それを考え合わせれば、八幡湿原と人の関係も十分にうなずける。
湿原の減少をもたらした乾燥化の原因についても、「人間活動の変化によるものが大きい」と、白川さんは明快に言い切る。一つは、燃料革命などで樹木の切り払いや草刈りをしなくなるなど、「人の手が入らなくなった」ことだ。一方、「人がかかわり過ぎる」ために、最近目立ってきいるのが、草花の採取や撮影を目的に湿原に立ち入る「踏み荒らし」。靴に付いた外来植物を持ち込むことにもなりかねない。
尾瀬では、地元の県や土地を所有する東京電力、ボランティアたちの手で植生の復元作業が、もう四十年以上続けられている。しかし、完全な回復までには、なお時間がかかる、という。一度崩れた植生を元に戻すことは、決してたやすいことではない。
六千五百〜一万年の歳月をかけて、泥炭が積み重なり成長してきた八幡湿原。まずは、かけがえのない湿原の価値を意識することから始めよう。そうすれば、取り組むべき方向は、おのずと見えてくるはずだ。
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