アフリカで唯一、原子力発電所を持つ南アフリカが、世界に先駆けて安全性が高く、経済性にも優れた次世代の新型原子炉、ペブルベッド・モジュール炉(PBMR)の開発を進めている。2009年にも商業化し、世界各国への輸出も目指す。アパルトヘイト(人種隔離政策)時代には国際的に孤立する中で核開発に手を染めていたが、核保有国としては世界で初めて核兵器を廃棄。欧米や日本などの国際的な協力も得て、原子力の平和利用の道を歩んでいる。
実用化 輸出も視野
大西洋とインド洋を分けるように突き出したアフリカ南端のケープタウン市。その中心部から北西三十キロにクーバーグ原発がある。周辺の環境保護区域も含め広さ約三千ヘクタール。施設のそばまで野生のシマウマやインパラなどが群れ、人が近づいても恐れる気配はない。
「ここは野生動物や自然環境との調和を図るため思い切った広さの敷地を確保しており、あと原発十基は楽に建設できる」と、南アフリカ電力公社のカリン・デ・ビリヤーズ政府・広報担当主任。原発の近くでは、新たな送電設備を建設中で「近くPBMRの原型炉が着工される。ここから世界へと普及するようになる」と語った。
高温ガス炉の一種であるPBMRは、核反応でヘリウムガスを高温に熱し、発電機のタービンを回す仕組み。燃料には、二酸化ウランをシリコンカーバイトなどで三重に被覆した多数の粒子(直径約一ミリ)を、直径六センチの黒鉛のカプセルで包んだタドン状の球(ペブル)を使う。
「心臓部」である原子炉圧力容器の内面は耐熱性の高い黒鉛のれんがが張られ、燃料を上から入れて自然落下させて燃やす流動式だ。運転中でも燃料が装荷でき、六年間連続運転が可能。出力は一基当たり十二万五千―十六万五千キロワットと小型だが、電力需要に合わせて増設しやすく、八基組み合わせれば百万キロワット級の原発と同じ規模になる。
こうした高温ガス炉特有の構造が、高い安全性につながっている。ヘリウムは不燃性で炉心を通過しても放射能を帯びない。燃料や炉の特性から異常が発生しても炉心温度の変化が緩やかで、対応措置が取りやすい。
開発を担当するPBMR社のファムジレ・チェラネ技術戦略マネージャーは「米スリーマイルアイランド原発事故のような燃料損傷やメルトダウン(炉心溶融)の危険性がなく、旧ソ連のチェルノブイリ原発のような暴走反応も起きない。この安全性の高さが、優れた経済性につながる」と説明する。
一般の軽水炉には欠かせない圧力容器を覆う巨大な原子炉格納容器や緊急炉心冷却装置(ECCS)などが不要で、建設単価は出力一キロワット当たり約千ドルと火力発電所並み。発電単価も一キロワット時当たり二円程度と、世界でもトップクラスに安い南アフリカの石炭火力発電所に負けない水準という。
PBMRの開発に乗り出したのは一九九三年から。そのタイミングは、核開発やアパルトへイトを放棄し、国際社会に復帰した時期と重なる。
アパルトヘイトによって経済制裁を受け、外交的にも孤立していた南アフリカは、ひそかに核兵器を開発していた。だが、八九年に誕生したデクラーク政権は九一年にアパルトヘイトを放棄し、六発の核爆弾も解体して核拡散防止条約(NPT)に加盟。九四年には初めて全国民参加による選挙を実施してマンデラ大統領が就任し、民主化を実現した。
チェラネ技術戦略マネージャーは「今では国際的な協力体制で開発が進められ、次世代の新型原子炉の中で最も早く実用化への期待がかけられている」と強調する。
九八年に設立されたPBMR社には南アフリカ電力公社だけでなく、英国原子燃料公社(BNFL)、米国最大手の原子力発電会社エクセロンが資本参加。開発ではタービン担当の三菱重工業、燃料製造担当の原子燃料工業の日本企業二社も加わり、開発スタッフは世界で約五百人に上る。
燃料製造装置は、かつて原爆用のウラン濃縮設備があったヨハネスブルク市近郊の原子力研究所構内の跡地に建設される予定である。
クーバーグ原発近くに建設されるPBMRは二〇〇九年ごろに稼働し、商業ベースに乗せる計画である。二〇二〇年までに世界で二百基の受注が見込まれているという。
南アフリカの原子力発電所
発電所 |
出力
(万キロワット) |
炉型 |
運転開始 |
所有企業 |
クーバーグ 1号機
2号機 |
96.5
96.5 |
加圧水型
加圧水型 |
1984年
85年 |
南アフリカ電力公社 |
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アフリカで唯一の原発、クーバーグ発電所。すぐ隣に開発中のPBMRが建設される(南アフリカ・ケープタウン市)
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アパルトヘイト
1948年に誕生した国民党政権によって植民地時代から続いていた人種差別が法制化された。国民を白人、カラード(混血)、インド人、黒人に分けて登録を義務付けた人口登録法や人種別に居住区を指定した集団地域法などがある。国内で黒人の激しい反対運動が展開される中、国連も外交関係断絶を求める制裁措置を勧告したり、各国も経済制裁を実施。デクラーク政権は91年に関連する法律をやめて、アパルトヘイトが廃止された。 |
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