中国新聞
2003.9.8

恵み再生
    人が耕す
 「里海 いま・みらい」  1.改善と停滞

30年前、若き日の調査経験。復活への思い今も脈々

柳哲雄教授 山田国広教授 讃岐田訓教授

<瀬戸内海汚染総合調査団>関西の大学助手ら若手研究者の呼び掛けで結成。1971年7月20日〜8月7日、関西を中心に計18大学約80人が参加。海と陸の二手に分かれ、第1回調査を実施した。大阪湾を出航した調査船「たかちほ」は、瀬戸内海を反時計回りに回り、各地で水質や底質などを調査。陸のメンバーは、漁業者などから、汚染の実態や漁獲などの聞き取りをした。実質15日間の調査は報告書にまとめられている。以後、倉敷市水島の重油流出事故や播磨灘の水質など瀬戸内海の調査を継続的に進め、93年に活動を終えた。

 



柳哲雄教授
「里海」をテーマにした瀬戸内海研究会議主催のフォーラムの「海と環境」セッションで座長を務める柳教授(8月21日、大分市)

 漁業者の喜ぶ顔が見たくて

里海の視点 世界に発信
九州大応用力学研究所 柳 哲雄教授(55)=沿岸海洋学

 漁業者が声を上げたからこそ瀬戸内法も制定された。漁業者の生産活動によって海の汚れも抑えられてきた。「かつてのように多様な魚が住み、生産力ある海は、人がかかわることによって可能になる」。自然に調和した栽培漁業の実践など、数年前から「里海」を提唱している。

 よく海外で論争になる。「自然は手付かずがいいと言うのが外国人。が、有限の地球で、増えていく人が自然とどう付き合っていくのか」。その答えが里海。人が適切に手を入れ、多様な生態系を維持し、豊かな恵みを得る里山の概念を「海に関しては初めて瀬戸内海でやる」。半世紀に及ぶ瀬戸内海との付き合いの到達点でもある。

 京都大の学生時代、深入りした学園闘争が終わり、行き場を見失いかけていた時期に出会ったのが総合調査団。多くの漁師らと話した。海を見続けてきた豊富な経験と自ら海を守ろうとする姿に、「地方には偉い人がいる」と率直に感じた。

 「工場から汚い水は来ているのに、学者はなんで来てないんや」の一言は衝撃だった。元々は潮汐(ちょうせき)・潮流の研究を目指した。幼いころからの夢でもある。古里・徳山市の海で、小学1年から潮の干満など調べてきた。当時の素朴な知的好奇心もよみがえってきた。

 「研究が人に役立つ可能性がある。調査団の経験が救いになった」。漁師たちが「海が変だ」と言えば、調査と実験を繰り返す。解明すれば「自らの知的好奇心も満たされる。それが研究のだいご味」と明快だ。挫折しそうになっても「漁業者の喜ぶ顔が見たいと踏ん張りが利く」。

 「潮汐残差流」と名付けた潮の流れを突き止めた。これも、香川県観音寺市の漁師の「汚水が県境を越え愛媛から入ってくる」との言葉がきっかけ。瀬戸内の潮流は往復流しかなく、汚れは均等に広がるとされていた。川のように一方向へ向かう流れがあることを示した。播磨灘の赤潮裁判などでも証言した。

 現在、瀬戸内海の海水に含まれる窒素とリンのうち何割が陸から、何割が外洋から来るか調べている。海の水はきれいになったと感じるが、最大の課題と考える貧酸素水塊。原因となる窒素、リンを「元から絶つ」ためにも、「陸からどれくらい削減すればいいのか、全体を把握する必要がある」と訴える。

 日本の後を追いかけるアジア諸国で今、瀬戸内と同じことが起こりつつある。「工業化が進む一方、排水対策など陸の制御ができていないから、水質汚染は瀬戸内よりもっとひどい。解決できる人材養成が次の仕事の一つ」。インドネシアや中国などアジアからの留学生も受け入れている。

 瀬戸内海で得た知識と経験を、持続可能な里海づくりにどう結びつけるか。世界の海にも視線を向けている。

 


山田国広教授
環瀬戸内海会議の瀬戸内法改正フォーラムで、水の循環などについて講演する山田教授(7月27日、備前市)

 川や森があっての瀬戸内海

陸と海の循環呼び掛け

  京都精華大人文科学部環境社会学科
山田 国広教授(60)=環境アセスメント概論・循環論

 調査団に加わったのは、28歳の夏だった。当時、数学や力学を専攻する大阪大機械工学科の助手。「研究室が実社会からかけ離れていく」という焦りがあった。公害など高度成長の陰の部分がクローズアップされ始めた時期である。

 異臭を放つ海に調査船で出て、水をくんでは分析した。テープレコーダーを担いで漁港の路地を回り、海を守るために汚染と闘う漁師たちの言葉を記録した。「2週間の現場体験ですべてが変わった」。現場主義が、その後の研究者人生の原点となった。

 「現場に行き、問題点を見つけ出す。その繰り返し」。環境アセスメントやマネジメント、水や物質の循環など研究分野は幅広い。各地でゴルフ場計画が持ち上がったバブル期、農薬の流域汚染を危ぐする住民運動を支えた。琵琶湖の環境保全や織田が浜(愛媛県今治市)の埋め立て反対運動などにもかかわる。

 「陸と海の環境はつながっている」。さまざまな環境問題に取り組む住民にネットワーク化を呼び掛け、90年に誕生したのが「環瀬戸内海会議」(環瀬戸)。65団体が集まった。

 瀬戸内法施行から30年になる。埋め立て全面禁止などを盛り込んだ瀬戸内法改正プロジェクトを進める環瀬戸が7月、備前市で開いたフォーラム。参加者に、自然や文化条件などを一体的にとらえる「生命地域」として瀬戸内海像を投げかけた。

 生命地域とは雨水が流れ込むエリアと位置付け、「川や森があっての瀬戸内海」との視点から、水や栄養の循環、森と川、人、海のつながりを数値的に示そうという試みだ。「循環やつながりを生かすも、ぶった切るも人次第」と言い、ダムや埋め立てなど循環を阻害する事業に警鐘を鳴らす。

 「工業化に貸した瀬戸内海の時代は終わり、今からは後始末」。貧酸素水塊を起こすヘドロなど課題は多い。これ以上、海に負荷はかけられない。流れ込む水をきれいにするため、陸域からの制御を目指す。森と川を含めた瀬戸内海地域が循環型社会のモデルと考え「それを提案し、近づけるのがぼくの役割」。

 一方で、海の回復力を信じてもいる。倉敷市水島の重油流出事故(74年)の体験からだ。調査団は直後に現場へ入った。生物がほとんど生息しない惨状からよみがえってきた。事故のたびに叫ばれる「死の海」という言葉に、「そう簡単に言うなよ」と思う。

 文化、生活、漁業など多くを組み込んだ全体像としての「瀬戸内海論」の構想も温める。「瀬戸内海はあまりにも大きい。ばらばらの研究や情報でなく、瀬戸内海の共通認識として伝えたい」。かつての調査団や環瀬戸のメンバーに呼び掛けようとも思っている。

 


讃岐田訓教授
住民グループと一緒に播磨灘の水質調査を続ける讃岐田教授(8月23日、播磨灘)

 海の悪化 埋め立てが原因

開発阻止にデータ蓄積

神戸大発達科学部讃岐田 訓教授(62)=水圏環境科学

 姫路市沖の播磨灘。調査用の漁船から海岸線を望む。「この辺りが一番ひどいんや」。示す先には工場群。海底から船に引き揚げた泥の中から小さな底生生物を見つけようとしたが、「あかん。ナッシングや」。首を振った。

 播磨灘の水質・海底の泥質調査を始めたのは1974年。当初は、大きな漁業被害を出した赤潮(72年)の原因などを科学的に立証するのが狙いだった。総合調査団の解散(93年)で一時中断したが、不漁にあえぐ漁業者らのSOSにこたえて4年前に再開。住民や漁業者でつくる「播磨灘を守る会」と一緒に春と夏の年2回、調査を続ける。

 「若い世代を含め、できるだけ幅広い態勢で続けたい」。同行する神戸大のゼミ生や姫路工業大の教員、学生らに、これまでに培ったノウハウを伝えている。

 「海の知識はゼロに等しかった」自分が調査団の第1回調査に参加したのは、32年前。神戸大の助手だった。

 きっかけは、70年冬、京都大であった講演会。「君たちの学ぶ科学や技術が瀬戸内海にどんな影響を与えているか、直視してはどうだ」。当時、公害研究の第一人者だった宇井純・東京大工学部助手(現・沖縄大名誉教授)の鋭い指摘に刺激を受けた京都大農学部の学生や助手の呼びかけで、調査団が組織された。

 漁村を訪ね歩いた。油臭い魚や奇形の生物に大きなショックを受けた。国や企業を相手に命を張って闘う漁業者の存在も知った。

 「海がどう変わったかを語れるのは、彼らだけ。科学的な裏付けは、大学におる者にしかでけへん。これぞ研究の原点と思った」と振り返る。

 播磨灘の水質自体は、調査を始めたころに比べ改善した。が、漁獲量は激減している。「排水はゼロにはならない。海底に有機質がたまる一方や」。夏に発生する海底の貧酸素状態に拍車を掛け、生き物を激減させている、とみる。

 注ぎ込む川や湖にも目を向ける。「潮流を妨げ汚染物質をためる」として埋め立て事業への反対運動を展開。大阪府内を流れる淀川水系や琵琶湖の汚染についても85年から市民と調査している。

 「海がこうなった大きな原因は埋め立て。使っていない場所を、磯や浜に戻すのが先決」と、再生策は明快。これまでの経験から、「行政を動かすには、海の変化を示す科学的データの蓄積が欠かせない」と調査継続の必要性を訴える。

 来年2月に定年退職を迎える。「大学と市民の連携が、海をないがしろにする行政や企業の歯止めになるはずやから」。一市民として、調査に参加を続けるつもりだ。