タイトル「ひろしま 都心のあした」
  パート 4  平和記念公園

    ■ 設計の精神 ■
      平和を創る工場に


写真
丹下さんの設計で建設が進む平和記念公園。敷地内には民家がまだ数多く残る(1954年7月、旧広島商工会議所から)

現状 「聖域」意識しすぎ?

 広島市中区の平和記念公園から元安川を挟んだ対岸に夜、柔らかな光が点々とともる。「灯和(とわ)の径(みち)」の名が付く。

「園内触るな」

 市のミレニアム事業の一つで、約一億円かけて二〇〇一年に完成した。原爆ドームから平和大通りにかけて、魅力ある夜の景観をつくり出し、都心の回遊性を高める―という趣旨で、観光担当が手がけた。

 アイデア公募で、審査員の圧倒的な支持を得たのは、ドームを起点に平和大通りまでの河岸に静穏な光を並べる案。ローマ法王ヨハネ・パウロ二世ら世界の著名人が原爆資料館に残したメッセージを浮かび上がらせる。読みながらゆっくり歩ける仕掛けだった。

 しかし公園を管理する緑化推進部は、「公園内を触るなどもってのほか」と、公園の敷地にあたるドームから元安橋のエリアは除外。資料館は平和推進部の所管で、メッセージの活用も立ち消えとなった。結局、光が呼吸しているようなイメージだけが、元安橋以南で採用された。

定まらぬ理念

 「原案は非常に印象的だった」と審査にあたった広島市立大芸術学部長の大井健次さん(58)。「平和大通りの将来像も含め、公園の理念が定まらないままでの提案だったから、気の毒な面もあった」。市の所管が三つにまたがり、その思いも統一性を欠く現実と、表現者の思いにはギャップがあった。

 芝生広場の開放も含め公園の活用にブレーキをかける緑化推進部。論拠を、公園を設計した丹下健三さん(90)の精神に求める。「祈りの場は聖域。厳粛であるべきだ」との考え方だ。しかし専門家の多くは、「丹下さんの本意は違う」とみる。

 広島国際大教授の石丸紀興さん(63)=都市計画=によると、平和記念公園は当初、「大きな普通の公園」として構想された。一九四九年に広島平和記念都市建設法が制定され、平和記念施設だと国の補助率が三分の二と高いことから、「記念」の性格が強まった。

 この時のコンペで一位となった丹下さんは当時、建築雑誌にこんな文を寄せている。「平和を観念的に記念するものでなく、平和を創(つく)り出す建設的な意味が必要。施設は、平和を創り出すための工場でありたい」

 東京大教授の藤森照信さん(57)=建築史=は丹下さんとの共著「丹下健三」に、「慰霊を強調することへの躊躇(ちゅうちょ)があった」と書く。

開放イメージ

 「全体のプランも視覚的に閉じていないし、自由に歩き回れる開放のイメージ。芝生広場だって『国民広場』と呼んだぐらいだから」。丹下さんの「慰霊より未来の平和」志向を代弁する。

 石丸さんも、今の公園は「『聖域』を意識しすぎた過剰整備」とみる。「今の広島で、外国人が慰霊だけ感じて帰るのは、巨像の耳だけ見るようなもの。記念、日常、面白さがほどほどに混じりあう場が自然だ」と、市の見解に批判的だ。

2004.4.28