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次代へ紡ぐ多島の恵み
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18世紀初頭に寄港した朝鮮通信使が「日東第一形勝」と称賛した福山市の鞆の浦。2層の塔がある弁天島(中央部左)、背後の仙酔島、岡山県の笠岡諸島まで見渡せ、円形港湾(手前)には漁船がもやう |
指定七十周年を迎えた瀬戸内海国立公園は、世界に誇れる、たぐいまれな多島海である。重層的な歴史や文化をはぐくみ、沿岸の人々に多種多様な恩恵をもたらしてきた。第二次大戦の動乱、高度成長期の開発など大波にもまれ、時代とともに表情を変えつつも、癒やしの場としてもすっかり定着した。いまを生きる者の英知を結集し、「ふるさとの海」を次代に残したい。
自然公園法の前身である国立公園法が制定されたのは一九三一(昭和六)年。優れた自然の風景地を保護し、国民の保健や休養に活用するのが目的だった。旧内務省は大正後期から候補地調査を既に始めていた。
当初、香川県の小豆島、屋島が浮上したが、鷲羽山(倉敷市)や鞆の浦(福山市)周辺などの多島美が評価され、備讃瀬戸を中心にした海域、一部沿岸陸域に決定。瀬戸内海は三四年三月十六日、九州の雲仙、霧島とともに、わが国初の国立公園になった。
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「地理的な多島海そのものではなく、多島海景観が選定対象であり、展望地とセットになっているのが特徴」(堀繁東京大アジア生物資源環境研究センター教授)であり、背景には西洋からもたらされた新しい風景観がある。厳島神社(広島県宮島町)などは人文的要素が認められ、後に追加指定された。
国立公園内では一定の開発規制があるものの、時には無力だった。工業用地、港湾施設、住宅用地などを確保するため沿岸部が次々と埋め立てられ、白砂青松の浜辺は相次いで消滅。目が届きにくい島しょ部では、埋め立て、建設用の土砂が削り取られ、産業廃棄物が投棄された。多くの人々が暮らす国立公園は、親しみやすさゆえに人の手も入りやすい二面性をはらむ。七十年の歴史がそれを証明してきた。
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「今後、国立公園の自然に手を加えるべきではない」。環境省がインターネットなどを通じて実施したアンケート(〇一年度)では、回答した約八千人の六割が保全を求めた。
瀬戸内海国立公園の区域拡張に携わった元国立公園協会会長の大井道夫さん(81)は「内海多島という地形の上に刻み込まれた人間のさまざまな営み、それとほどよく睦(むつ)み合う自然がなによりの魅力」といとおしみ、こう呼び掛ける。「瀬戸内海の恩恵を享受する沿岸の人々が一帯を守ろうとする意欲が、法律よりもよほど大切だ。七十周年を機に、ふるさとの海とあらためて向き合ってほしい」
《国立公園》 草分けは米国イエローストーン国立公園(1872年指定)。その後、多くの国が制度化し、国立公園がある国・地域は約150、公園の数は約1700とされる。
わが国の国立公園は、瀬戸内海(1934年指定)、大山隠岐(36年指定)、山陰海岸(63年指定)を含めて計28。瀬戸内海国立公園は広島、山口、岡山など沿岸11府県にまたがる。海域と多島海景観の展望地などの陸域を合わせると約82万ヘクタールで、国内最大規模である。
2004.3.16
文・三藤和之、写真・荒木肇
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