海道沿いの丘陵地は春爛漫(らんまん)。あちこちに小さな梅林があり、淡いピンク、白い花がうららかな潮風に揺れる。花見気分で浮かれていたら、背中から思わぬ言葉が返ってきた。「梅は、栄華から退潮した歴史の象徴かもしれない」。梅林の所有者で徳乗寺住職の小寺智晃さん(70)が港の方を指さした。
兵庫県西部の瀬戸内海に面した御津町の室津港。播磨風土記(八世紀)は「風を防ぐこと、室の如し」と記す。なるほど三方を山に囲まれた天然の良港だ。
回船業も発展
漁村だった室津が最も活況を呈したのは江戸時代。町史編さんに携わった町立図書館長の大川佳樹さん(50)によると、参勤交代で江戸に向かう九州、四国の西国大名、朝鮮通信使の寄港、上陸地として大いに栄えた。瀬戸内海は当時、日本の大動脈であり、室津は代表的な海駅。かつて本陣が六軒もあり、回船業も発展した。
もっと東の明石などではなく、なぜ室津なのか。答えは、オランダ公使の江戸参府に随行して元禄四(一六九一)年、海路で室津を訪れたドイツ人医師ケンペルが「日本誌」に残している。「…姫路付近は海底に岩礁が多く航行に差し支え、泥深く石が多くて錨(いかり)を降ろせない」と。
さらに、同じ瀬戸内海でも室津を境に地理は大きく異なる。西の岡山、広島県側は多島海なのに対し、東側は淡路島以外に島がほとんどない。天候が悪化しても途中に避難港がなかった事情もある。「室津にとって都合がいい条件が整っていた」と大川さん。ただ、未来永劫(えいごう)の繁栄までは約束されなかった。
やがて参勤交代はなくなり、交通の主役は鉄道に。他の港町と同様、室津も失速した。「漁業も頭打ちになり、梅栽培は収入の足しにするためと聞いている」と、黒い袈裟(けさ)姿で梅林の見回りに来ていた小寺さん。戦後、花見客でにぎわった時期もあるが、近年は栽培を放棄した梅林が目立つ。
豪商の家修復
職を求めて若者が流出し、高齢化が進む。「このままでは本当に沈んでしまう」。東京の大学に進んでいた若者が危機感を募らせ、卒業後に帰郷。家業の雑貨店を継ぎ、まちおこしに奔走した。
柏山泰訓さん(56)だ。港の近くにあり、回船で財をなした豪商の町家の活用を計画。仲間と町に働き掛けて修復し、室津海駅館として一九九七年に開館した。回船や参勤交代、朝鮮通信使をテーマに、関係史料などを展示。他の港町とのネットワークづくりも試みる。
「歴史は瀬戸内海のどこでもある。ただ、それを示す痕跡を守り、伝えないと歴史は途切れてしまう」。柏山さんたちは、いにしえの舞台に新たな光を当てようとしている。
2004.3.7
写真・田中慎二、文・三藤和之