息が切れた。足もだるい。集落の背後に広がる鹿島の段々畑。登っても登っても最高段はかなたにあった。
有人島としては広島県最南端の鹿島。宮ノ口の港から見上げると、段々は斜面に四、五十も刻まれる。幕末までは無人島だった。その後の人口増で定住が始まったとされる。山が海岸線まで迫り平地はわずか。食糧確保のため、開墾された。
「倉橋島から移り住み、私らで五代目と聞いてます」と石中キミエさん(60)。最初は斜面を削るだけだったが、雨などで崩れるため、石で補強。土中から石が出れば砕き、海岸からも石を担ぎ上げた。かつては子どもも駆り出された。
一足早い出荷
段々畑は過酷な労働を強いる。が、「恩恵もあるんよ」。石中さんの畑は海辺の南向き斜面。階段状だから日光がよく当たる。石が温められ、保温効果で霜が降りることもめったにない。海面の照り返しも手伝う。タマネギやジャガイモの出荷は近隣産地より一カ月早い。天然の温室だ。
宮ノ口の北約二キロ。入り江に面した敷地に校舎や体育館が並ぶ鹿島小がある。いや、あった。校舎は鉄筋二階建て。二年前、島で唯一の小学校は約百二十年の歴史に幕を下ろした。終戦直後は全校で三百六十五人。最後の卒業生は六人、在校生は十二人だった。
「前は普通の畑だと思っていた」「昔の人は頑張った」「先祖の大作品だ」。町立図書館に保管されている閉校記念誌。卒業前、段々畑の歴史を調べた子どもたちの驚きが伝わる。
「見慣れた風景が、実はふるさとの宝であることを実感してほしかった」と、幕引き役を務めた二十六代目の校長高尾寿夫さん(61)=東広島市。学校の跡地利用をみんなで考え、医療、高齢者施設づくりを進める提案も記念誌に盛り込まれた。段々畑は先人の労苦に応える気持ちも芽生えさせた。
「山が降りた」
減ったのは児童数だけではない。高齢化が進み耕作をやめた畑が目立つ。雑草がはびこり雑木が丈を増す。「てっぺんまで畑があったのに、山が降りてきた」。港の護岸に腰掛け、孫をあやす石中二男さん(70)。「四、五年したら、こっぽり荒れてしまう」。孫をひざに乗せた。
そんな段々畑に近年、多くの見学者が訪れる。時には案内役を任される石川文次郎さん(77)は、石垣の手入れに余念がない。六十キロの堆肥(たいひ)を背負子(しょいこ)で担ぎ上げる。タマネギは丸々としていた。「生きてるうちはぶざまな姿を見せられない」。作業小屋のわきには補強用の石が百個近くも取り置きしてある。
2004.3.21
写真・田中慎二、文・三藤和之