永六輔さんの近著「伝言」で読んだ小話―。
「むかしは、用があると、借りてでも電話したものです。いまは、用がないと、電話しているようで…」
借りた人の礼状
かつて公衆電話のある無人島があった。愛媛県中島町の由利島(ゆりじま)。まだイワシ網が盛んで、十五戸ほどの人家があった昭和三十年代に赤電話が引かれ、四十年代半ば、無人島になっても残されていた。いつも傍らに十円玉が積まれ、借りた人の礼状が張られていた。
「二神島(ふたがみじま)の漁協が引いた電話でしたが、よその船に何かあったらというので、残したんです」
町職員豊田渉さん(50)は二神島の人。赤電話はやがてピンク電話になり、平成の世になくなった。木造の電話ボックスと赤さびた海底ケーブルだけ、今は残る。
「電話のない電話ボックスですからね。何回渡っても面白い、ミステリアスな島です」
二神島から南へ八キロ。豊田さんの案内で、二つの島が砂州でつながる周囲四キロの島に上陸した。なぜか浜にはサボテン。れんがのがれき。茂みに分け入ると、沖縄の聖なる森「ウタキ」にも似た石積みの先に神社。板壁に墨で「安永四年(一七七五年)」とある。奥に進むと、廃虚になった戦後の人家があった。
「あれはミカンを運んだケーブルです。まだカゴが宙に浮いている」。山の方向を見上げた。不思議な光景だ。
由利島はイワシ網やイリコ干し、ミカンやタマネギの耕作のため、子や老人を残し、二神島から夫婦で稼ぎに出た島。一軒の納屋に入ると、イワシを入れるカマス、木のみかん箱、大八車、船の帆…何でもある。井戸があり、貯水槽があり、しばし、ぼうぜんとする。
砂州渡ると「池」
「探検隊ですね。大人の方が喜んじゃう」
もう一人同行した松山市教育委員の中尾千咲さん(44)の明るい声で、われに返った。この夏、小学生を連れてキャンプする。その下見だ。豊田さんは中学生の時、初めてこの島に渡り、二十代の時、青年団活動でサツマイモなどを植えてみた。
「電気も水道もない島で、どう暮らしたのか、実証してみたくて」
砂州を渡り、「池」と呼ばれる入り江にたどり着く。戦時中、監視哨を置いた旧海軍が船が入れるよう開削した。石積みの護岸に青い水をたたえていて、美しい。畑は原野に返ったが、人の営みの痕跡は痛々しいほど目に焼きつく。沖合の取材艇まで手こぎボートに乗りながら、「また来たい」と思った。
2004.4.25
写真・荒木肇、文・佐田尾信作